なぜ不気味の谷は生まれるのか?
デジタルからしか不気味の谷は生まれない。
もしアナログで生まれていれば、速攻直すからだ。
不気味の谷の原因は、
もしアナログだったらすぐに抹殺されていた存在が、
抹殺を免れてそこで命を与えられていることではないか?
たとえば我々には、
奇形を恐れる本能的な気持ちがある。
蓮コラが気持ち悪かったり、
集合恐怖症があるのは、
疫病でブツブツになるのを恐れるのが、
本能レベルでプログラムされている説がある。
(恐怖は二世代まで遺伝する動物実験もあるし)
シマシマやブツブツの形をした、
危険な虫や蛇やキノコもあるだろう。
尖ったものは怖いし、安定しないものは怖いだろう。
そうした、
恐怖や嫌悪を喚起させる形があるのは確かだ。
アナログで、手で粘土をこねて作っていれば、
そのような奇形は出来ない。
「わざと奇形を作って人を不快にしよう」
という芸術(それを専門にする人もいる)でない限り、
いやこれは気持ち良くないからやめとこう、
という判断が、
ミリ秒で出来るものだ。
だから奇形の命は短い。ミリ秒くらいだ。
デジタルでモノをつくると、
この、奇形を判断する感覚器官を通さずに作ってしまう。
神経が痛まないので、大怪我をしているのに気づかないわけだ。
だからいつの間にか、不気味の谷ができてしまう、
というのが僕の説だ。
たとえば最初の不気味の谷は、
トイストーリーのCG赤ちゃんで言われたが、
これはCGという新しい技術のデモンストレーションの目的もあったから、
「多少不気味でもええやんか」があったと思う。
ところが、
CGはカワイイキャラ以外は、
まだ不気味の谷を超えていない。
静止画ならだいぶ来たけど、
動いたら急にダメになる。
これはやはり、手で触ってない、
手という感覚器官が奇形を判断していないからこその、
判断ミスだと思うのだ。
まあデジタルは手で触れないんだけど。
VRゴーグルとデータグローブでCGを作るようになるとマシになるのかね。
アナログの文章とデジタルの文章は、
この関係にあると僕は考えている。
デジタルの文章は、いくらでも足すことができる。
無限に太ることが可能だ。
ここ一ヶ月、アナログでそれを削ぎ落とすことばかりやっていた。
デジタルでフィニッシュした不気味の谷を、
アナログの身体性で描き直していった。
起こったことは、
文章が引き締まり、足されたものがどんどん落とされていく事だった。
一方、ここをもっと見たいと思えるところに、
すっと手が出て文章が生まれていく場面もあった。
トータルで死ぬほど切って、
豊かに足されて、プラマイだと少し痩せた感じ。
アナログで書くと、
生理が大事になる。
生理的快感、生理的不快感で書く。
論理、都合、欲をかくこと、
などはその生理の前に無力だ。
だがデジタルで書くと、
生理的快不快よりも、
論理、都合、欲をかくことが優先される気がする。
ここにこれを挿入すればいいや、
ここを切ってこっちに貼ればいいや、
ここにこれを捕捉しておこう、などだ。
文章は一気に読んで快不快を楽しむものなのに、
それが優先されなくなるのである。
つまり、文章が不気味の谷になっていた。
そのことに、ここ一ヶ月ほど向き合っていた。
もちろん、アナログの感覚の鈍いやつは、
アナログとデジタルの差はないだろう。
本当に感覚が優れているならば、
デジタルがアナログに勝るところは何もない。
不気味の谷生産機だ。
3DCADによる設計は、
不気味の谷に落ちやすいと僕は思った。
少し前にあげた自作トラックボールは、
明らかに不気味の谷に落ちている。
端的にいうとキモイ。
一応貼っとくか。キーボードもそう。
苦労はすごくわかるんだけど、
この生理的キモさって何だろうと考えて、
これは不気味の谷ではないかと思ったのだ。
僕も3DCADであるBlenderで3Dプリントしてるけど、
パーツパーツが不気味の谷に落ちていると、
それをコピペして使うので、
不気味の谷が継承されやすい、
という現象には気付いていた。
デジタルコピペの罠だ。
アナログなら、奇形を感じてすぐに殺しただろう。
あるいは、手コピーだから、
もっといい形に変形されただろう。
とくに手で触るキーキャップだから、
余計敏感にこれを感じる。
「手で触って作っていたら、
こんな無茶なカーブを作らない」
という現象にしょっちゅう出会う。
それはモニタでしか見れないから、
触って奇形を判断できないのだ。
ちなみに手の感覚というのは鋭くて、
0.1mmの違いくらい触ればわかるよ。
コンドームの薄さの単位を考えればわかる。
あるものの造形のカーブは、
その0.1mm以下で触られて作られれば、
快感のあるカーブになる。
それをデジタルで作るから、不気味の谷になる。
車の設計も同様だ。
今の車は、たぶん3DCADで作っている。
70年代くらいの、官能的なスポーツカーを、
なぜ今作れないのか?
職人が木型を手で磨いて作っていた時代は出来た。
3DCADで作られたクルマは、全く官能的じゃない。
ウラカンも最近のトヨタも、全然よくない。
コルベットスティングレイや、デロリアンや、フェアレディZ、
70年代のジェームスボンドが乗ってたジャガーみたいに、
官能的じゃない。
バイクで言えばカタナやハーレーやVMaxやCB400みたいな、
官能的なカーブが、
何故今出来ないのだろう?
たぶん、デジタルによる不気味の谷に落ちているからではないだろうか?
デジタル音楽もそうなのかな。
僕は初めて電気グルーヴを聞いた時、
世界が解体される感覚に陥ったんだよね。
しっかりと存在した世界が、
デジタル要素に小さく分解されてしまった感覚を受けた。
それが、不気味の谷の入り口だったのかもしれない。
合成音声はとくに不気味の谷を感じやすい。
ボカロは僕は気持ち悪くて聞けない。
文章の話に戻ると、
いい文章はアナログの身体性を伴って書かれるべきかもしれない。
不気味の谷に陥る前に、
身体が勝手に回避してくれる。
デジタルで文章を書くと、
不気味の谷に落ちてても警報が鳴らないから、
気づいたら引き返せないところにいるかもしれない。
手という感覚器官は、それくらい信用できる。
2021年01月29日
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