2021年01月29日

デジタルは人を幸せにしない: 不気味の谷の原因

なぜ不気味の谷は生まれるのか?

デジタルからしか不気味の谷は生まれない。
もしアナログで生まれていれば、速攻直すからだ。

不気味の谷の原因は、
もしアナログだったらすぐに抹殺されていた存在が、
抹殺を免れてそこで命を与えられていることではないか?


たとえば我々には、
奇形を恐れる本能的な気持ちがある。

蓮コラが気持ち悪かったり、
集合恐怖症があるのは、
疫病でブツブツになるのを恐れるのが、
本能レベルでプログラムされている説がある。
(恐怖は二世代まで遺伝する動物実験もあるし)

シマシマやブツブツの形をした、
危険な虫や蛇やキノコもあるだろう。

尖ったものは怖いし、安定しないものは怖いだろう。


そうした、
恐怖や嫌悪を喚起させる形があるのは確かだ。

アナログで、手で粘土をこねて作っていれば、
そのような奇形は出来ない。
「わざと奇形を作って人を不快にしよう」
という芸術(それを専門にする人もいる)でない限り、
いやこれは気持ち良くないからやめとこう、
という判断が、
ミリ秒で出来るものだ。

だから奇形の命は短い。ミリ秒くらいだ。

デジタルでモノをつくると、
この、奇形を判断する感覚器官を通さずに作ってしまう。
神経が痛まないので、大怪我をしているのに気づかないわけだ。

だからいつの間にか、不気味の谷ができてしまう、
というのが僕の説だ。


たとえば最初の不気味の谷は、
トイストーリーのCG赤ちゃんで言われたが、
これはCGという新しい技術のデモンストレーションの目的もあったから、
「多少不気味でもええやんか」があったと思う。
ところが、
CGはカワイイキャラ以外は、
まだ不気味の谷を超えていない。
静止画ならだいぶ来たけど、
動いたら急にダメになる。
これはやはり、手で触ってない、
手という感覚器官が奇形を判断していないからこその、
判断ミスだと思うのだ。

まあデジタルは手で触れないんだけど。
VRゴーグルとデータグローブでCGを作るようになるとマシになるのかね。


アナログの文章とデジタルの文章は、
この関係にあると僕は考えている。

デジタルの文章は、いくらでも足すことができる。
無限に太ることが可能だ。

ここ一ヶ月、アナログでそれを削ぎ落とすことばかりやっていた。
デジタルでフィニッシュした不気味の谷を、
アナログの身体性で描き直していった。
起こったことは、
文章が引き締まり、足されたものがどんどん落とされていく事だった。
一方、ここをもっと見たいと思えるところに、
すっと手が出て文章が生まれていく場面もあった。
トータルで死ぬほど切って、
豊かに足されて、プラマイだと少し痩せた感じ。

アナログで書くと、
生理が大事になる。
生理的快感、生理的不快感で書く。
論理、都合、欲をかくこと、
などはその生理の前に無力だ。

だがデジタルで書くと、
生理的快不快よりも、
論理、都合、欲をかくことが優先される気がする。

ここにこれを挿入すればいいや、
ここを切ってこっちに貼ればいいや、
ここにこれを捕捉しておこう、などだ。

文章は一気に読んで快不快を楽しむものなのに、
それが優先されなくなるのである。

つまり、文章が不気味の谷になっていた。
そのことに、ここ一ヶ月ほど向き合っていた。


もちろん、アナログの感覚の鈍いやつは、
アナログとデジタルの差はないだろう。
本当に感覚が優れているならば、
デジタルがアナログに勝るところは何もない。
不気味の谷生産機だ。


3DCADによる設計は、
不気味の谷に落ちやすいと僕は思った。
少し前にあげた自作トラックボールは、
明らかに不気味の谷に落ちている。
端的にいうとキモイ。
一応貼っとくか。キーボードもそう。
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苦労はすごくわかるんだけど、
この生理的キモさって何だろうと考えて、
これは不気味の谷ではないかと思ったのだ。


僕も3DCADであるBlenderで3Dプリントしてるけど、
パーツパーツが不気味の谷に落ちていると、
それをコピペして使うので、
不気味の谷が継承されやすい、
という現象には気付いていた。
デジタルコピペの罠だ。

アナログなら、奇形を感じてすぐに殺しただろう。
あるいは、手コピーだから、
もっといい形に変形されただろう。
とくに手で触るキーキャップだから、
余計敏感にこれを感じる。

「手で触って作っていたら、
こんな無茶なカーブを作らない」
という現象にしょっちゅう出会う。

それはモニタでしか見れないから、
触って奇形を判断できないのだ。


ちなみに手の感覚というのは鋭くて、
0.1mmの違いくらい触ればわかるよ。
コンドームの薄さの単位を考えればわかる。
あるものの造形のカーブは、
その0.1mm以下で触られて作られれば、
快感のあるカーブになる。

それをデジタルで作るから、不気味の谷になる。


車の設計も同様だ。

今の車は、たぶん3DCADで作っている。
70年代くらいの、官能的なスポーツカーを、
なぜ今作れないのか?
職人が木型を手で磨いて作っていた時代は出来た。
3DCADで作られたクルマは、全く官能的じゃない。
ウラカンも最近のトヨタも、全然よくない。
コルベットスティングレイや、デロリアンや、フェアレディZ、
70年代のジェームスボンドが乗ってたジャガーみたいに、
官能的じゃない。
バイクで言えばカタナやハーレーやVMaxやCB400みたいな、
官能的なカーブが、
何故今出来ないのだろう?

たぶん、デジタルによる不気味の谷に落ちているからではないだろうか?


デジタル音楽もそうなのかな。
僕は初めて電気グルーヴを聞いた時、
世界が解体される感覚に陥ったんだよね。
しっかりと存在した世界が、
デジタル要素に小さく分解されてしまった感覚を受けた。
それが、不気味の谷の入り口だったのかもしれない。

合成音声はとくに不気味の谷を感じやすい。
ボカロは僕は気持ち悪くて聞けない。



文章の話に戻ると、
いい文章はアナログの身体性を伴って書かれるべきかもしれない。
不気味の谷に陥る前に、
身体が勝手に回避してくれる。

デジタルで文章を書くと、
不気味の谷に落ちてても警報が鳴らないから、
気づいたら引き返せないところにいるかもしれない。

手という感覚器官は、それくらい信用できる。
posted by おおおかとしひこ at 14:36| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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