2021年02月08日

ちょっとすごい人の話を聞いてくれ

という風に、ストーリーはなるべきだ。

「すげえ俺の話を聞け」になってはならない。


僕はつねに、
主人公は他人であるべきで、
自分を書いてはいけないと書いている。

自分を書いていいのは、自叙伝と日記だけだ。
それは一人称である。

ストーリーというのは三人称だ。
主人公の中から世界を見るのではなく、
我々個人が、世界と主人公を見るのだ。

小説には一人称形があるが、
それは除外する。
ここで取り上げるのは、
映画脚本がメインなので。

そのとき、
主人公=作者だと、「俺の話を聞け」になってしまう。
自分から観客へベクトルが向いている。

主人公=他人だと、
「いやー、こないだ凄い人の話聞いちゃってさー。
聞く?」
となる。
自分と観客は同じ側にいて、
ベクトルはそこから主人公へ伸びるようになる。

三人称はこうして書くものだ。

最初は凄い他人の話だったのに、
それがいつのまにかまるで自分みたいに思えているのが、
三人称という形式である。
(この現象を感情移入とよぶ。
詳しくは過去記事)


俺から観客にベクトルが向いているのは、
基本的に自慢だ。
どうだスゲエだろ、だ。
それは説得や感情移入ではなく、スペックになってしまう。

また、逆に同情してくれ、もある。
これも説得や感情移入ではなく、スペックになってしまう。

100人とやった、スゲエ車買った、
賞取った、いい会社に勤めてる、学歴、身長。
こんな酷い目にあった、低身長低学歴、ハゲ、短小。
振られた、いまつらい。

スペックで語れることが中心になる。

だから凄いストーリーを語ろうと思う時、
凄いスペックを書いてしまうのだ。

どれだけ凄いスペックかを。


凄いストーリーというのはそうではない。
スペックは結果に過ぎず過程ではない。

凄いストーリーというのは、
この状況からここまで持ってきたのか、
という過程のことであり、
その過程そのものがストーリーである。

スペックによって解決するのはストーリーではない。
それだと2秒で解決するからね。
2秒ストーリーならそれもよし。

映画は、二時間ある。

この状況から、二時間かけて、
良い状況へもっていくための、苦闘こそが映画である。

その苦闘をなしえた、凄い人の話をするのである。

じゃあスーパーマンの話なのか?
そうではない。
一見我々と変わらない普通の人なのに、
ただ一点だけ異なるから、その人はすごいのだ。
諦めなかった、すごいがんばった、すごい閃きがあった、
すごい工夫をした、などだ。

その、ただ一点だけ異なるすごいことを描くのが、
映画の主人公を描くということである。

高身長高学歴高収入モテモテマンでなくてよい。
チビデブハゲでしょぼくてもいいのだ。
だがしかしその辺の奴と違った凄いところがあってね、
というのが映画だ。

二時間苦闘して最後になし得る、
そのリアリティ溢れる問題の解決こそがストーリーであり、
それをメインでやる人のことを主人公という。



俺の話を聞け、では、
二時間かけて語るべき苦闘がない。
スペックで二秒解決だからね。
だから詰まらないのだ。
そのスペックじゃ通用しない、
一番苦手なことを解決する苦闘の二時間なら面白そうだ。

俺の話を聞け、では、
語りたいところを語ったら満足して終わってしまう。
スペック自慢したら終わり。
辛い自慢したら終わり。

辛い自慢なんか、冒頭の辛いシーンで終わりじゃんね。
それをどういい状況に持っていったかを二時間かけて書くのが映画なのに。
それが何故か解決した、
というご都合になるのはこうした理由だ。
恐らく他人によって解決がもたらされるだろう。
メアリースーはこうしてやってくるのだ。

メアリースーは甘えでもあるが、
そもそも、「俺の話を聞け」から始まっていることが問題だ。


「ねえねえねえ、ちょっと凄い人の話聞いたんだけどさ、
聞いてよ」
から始めれば、
その人がどのようにして、
その状況から最後の状況まで問題を解決したかを、
語ることができる。

ここが凄い、でも最初はそうじゃなかったんだよね、
実は最初の状況はこんなにひどかったんだ、
でも彼は諦めなかった、なんでだと思う?○○だったからさ。
だから○○を○○することが出来たんだ、
こうなったらみんなこの人を見る目が変わるよね、
だからみんな協力を始めて、波に乗り始めたんだよ、
ところが一筋縄では行かなかった、
○○○になっちゃったんだよ。
でもここで○○○をするのがこの人のすごいところでね、
なんと○○○…

などのように語るのである。

これが表のストーリー、Aストーリーになるべきだ。

「俺の話を聞け」がAストーリーになると、
スペック自慢の二秒しかないだろう。
posted by おおおかとしひこ at 00:25| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「ちょっとすごい人の話を聞いてくれ」について
大岡脚本論をざっくり要約すると「映画脚本は必ず成長譚になっていなければならない」になるとお見受けしておりますが、世の中に森羅万象ありとあらゆる面白いお話がある中で何でよりによって映画は成長譚しか扱わないのかが謎なんです。
もしかして映画の暗黙の尺数・二時間と関係ありますか。二時間で「一つの人生を見た」と思わせるのに成長譚しかないということなんでしょうか。
Posted by コメ欄荒らし at 2021年02月09日 03:30
>コメ欄荒らしさん

逆から考えます。
「二時間も見といて、何にもならなかった」ストーリーを考えてみるとわかります。
「こんだけわざわざ見させて、すいません何でもなかったです、
はないやろ」と怒りが湧いてくるでしょう。

やはり二時間休みなしで集中して見るのはしんどいです。
それに見合った「価値」が必要でしょう。
物凄い笑った、泣いた、ドキドキした、
でも構わないと思います。
「成長した」はそれらと並列の価値の一つでしょう。

成長といっても、劇的に見違えるようにならなくてもいいんです。
「スタンドバイミー」では、
「帰ってきたら、街が小さく見えた」という、
外面的な成長でない、本質的な小さな成長を語る場面があります。
そのことで、「この二時間の意味」をまとめに入ってるわけですね。

あなたが語り手で、二時間お客さんの前で体験談を語るとします。
最後の最後にまとめに入ると思います。
「まあ色々喋りましたが、要はこういうことです」
を、主人公で表現すると、少しの成長で示すことになるでしょう。
成長は表現の道具に過ぎず、
実際には「この二時間はこういうことでした」を、
一行でどう示すか、ということです。
Posted by おおおかとしひこ at 2021年02月09日 10:27
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