二幕は難所の沢山ある、もっとも難しいパートだ。
テーマや感情移入ができたとしても、
ここで失敗するシナリオは沢山ある。
論理的であることと、
面白いことの、二つの両立が必要ではないかと思う。
論理的であることとは、
あるシーンの次に、必然的に次のシーンが導かれることだ。
ある目的のために、ある行動をする
↓
その結果が出る
↓
さらにそれに対して目的達成のために、
もっとも妥当な行動を次に選ぶ
↓
…
のループになっているということだ。
この論理性が破綻すると、
何でこれをやるのか意味がわからない、
これをやるくらいならあれをやった方がいいのではないか、
そもそも何のためにこれいるんだっけ、
などのゴミになる。
論理性というのは、数学の証明と同じだ。
AゆえにB、BゆえにC…したがってZ、
になるということだ。
数学が苦手なやつは、シナリオも論理性が欠けると思う。
つまり、無理や無茶や不自然や御都合主義の、
ダメなシナリオになると思う。
「数学は何のために勉強するのか?」
という世間を知らない若者の問いに、
僕は「まともなストーリーをつくるため」という答えをしておこう。
論理の破綻しているストーリーは、
「おかしい」「変」といわれる。
観客は論理でも感情でもストーリーを見ていて、
時々論理の破綻があれば気になるからである。
もちろん、
あまりにも面白くて多少論理が甘い場合もあり、
「勢いで誤魔化す」「細けえことはいいんだよ」
と無理が通って道理が引っ込むことももあるのだが、
そこまでの論理はちゃんとあったりする。
勢いを殺さないために、多少の非論理性は、
映画とは娯楽なのだからと認められるだけのこと。
しかし基本的には、
論理が破綻しているストーリーは、
他人に提供するレベルに来ていないと思う。
これをチェックするには、
ラストから「なぜならば」形式で最初までたどれるか、
という逆からのチェックをするとよい。
仮にA…Zだとして、
最終的にZになった、なぜならばYをしたからだ
Yをした。なぜならばXをしたからである
…Bをした。なぜならばAをする必要があったからである
と、頭から尻まで一本の論理がつながっているかを、
チェックすると良いだろう。
いや、そこは無理があるとか、
そこは不自然とか、
瑕疵が見つかれば、
その行動が論理的に最善手であるように状況を整え直すか、
行動そのものを変えると良いだろう。
ストーリーは論理的でなければならない。
なぜなら、主観の中の現象と違い、
他人と他人が生きる世界では、
論理で物事が動くからだ。
これだけならば、
ストーリーは詰将棋や数学と同じになってしまう。
(デスノートは現実世界で対決型の詰将棋をやろうぜ、
というコンセプトだろう。
それが将棋ではなくデスノートという新しいアイテムを用いた、
一種の思考実験ゲームストーリーであったわけだ。
以降流行った「デスゲーム」ものは、
いわば詰将棋的な面白さを、
いかに現実世界の道具を使って表現するか、
というジャンルだともいえる)
もう一方の柱には、
「おもしろいこと」が必要だ。
面白さとは何か、曰く言い難いが、
・普通ないことをすること
・普通ないものがあること
・普通を逸脱するなにか(ぶっとんだ、斜め上の)
・予想が当たること
・予想を裏切られて、意外だけど興味深いこと
・好きになること
・嫌いになること
・その他、感情が大きく振れること
(驚き、感動、悲しみ、爆笑、わくわく、恐怖、嫌悪、憎しみ、
懐かしさ、正義感、破壊衝動、などなど)
などではないかと考えられる。
こうしたことと論理性は、
脳の違うところで考えられ、
捉えられるものではないかと思う。
つまり、脳の一つの所だけ使う面白さではなく、
二幕の展開部分というのは、
脳のあらゆる所を使って、
なおかつ破綻しないものにしなければならないわけだ。
先に論理レールを作って所々感情的に壊して進むか、
先に感情的にぶっ飛んで、あとあと論理で組み立てていくか、
二種類のアプローチがある。
前者は確実だが面白みが薄く、
後者は面白いが破綻する。
両者を使い分けたり、リライトで逆方向からやってみたりして、
最終バランスを作っていくことになるだろうね。
わざと破綻させ、それを繕い、
という自転車操業もあるだろう。
その綱渡りは大抵破綻方向に行くことが経験的に分かっている。
壊すのは簡単だが作るのは難しいからだ。
この、労力のアンバランスが、
最終形をうまく作り上げることを、
難しくしているのではないかと考える。
論理的であること。
面白くあること。
別々に進む二頭立ての馬車を、
あなたは制御していく。
2021年02月15日
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