2021年02月16日

ケツを持つゲーム

シナリオを書くとはどういうゲームに勝つことだろうか?
面白そうなシチュエーションを発明したり、
いいキャラを発明したり、キャラとキャラの絡みを書くことだろうか?
それもあるけど、
一番大事なことは、ケツを持つかどうかだと思う。

それはつまり、そのストーリーはどうやって終わるのかに、
責任を持つことである。


どう終わるかを考えなくていいのなら、
いくらでも扇情的、
いくらでも逆張り、
いくらでも従来の枠組みをぶち壊す新しいもの、
性癖にまみれたり、
以前から見たかったものを羅列すること、
なんて簡単なのだ。

作るより破壊する方が簡単だ。
今ないものをとりあえず持ってくるだけでなんとかなる。


困難なのは、そして重要なことは、
「それにどういうオチをつけるのか」
ということだ。

上に出したような空騒ぎがあるとして、
その空騒ぎがいかにして決着するのかだ。
それが決着する、
すなわち単なる空騒ぎでなかったというからには、
その一連は、どのような意味であったのか?
が求められる。

いや、特に意味はないです、はただの空騒ぎで、
バラエティーショウとか猫動画とかと同じだ。

ストーリーはそのようなものではない。
「それにいったいどのような意味があったのか」がなくてはならない。

これはテーマとは微妙に異なる。
「このテーマを語るのに、すべては必然的な要素であった」
などが、意味ということに定義しよう。


なるほど、これらのもろもろは、
ただの意味のない空騒ぎではなく、
このテーマを語るための、
必然的に必要なパーツであり、
しかも念入りに組み立てられている、
という意味がない限り、
それは無責任なる投げっぱなしということである。


意味のない投げっぱなしは、
少しの才能があれば誰でも出来る。

たとえば「ファイアパンチ」は、逆張りの連鎖で、
魅力的に見えたキャラクターや設定をすりつぶして、
ケツを持たずに放り投げた、ひどい作品であった。

車田正美の漫画「風魔の小次郎」のラストもひどいものだ。
聖剣戦争の途中までは神漫画であったが、
その後の急落ぶりは伝説級だろう。
何の意味があったんや、の代表格である。

同様に、聖闘士星矢のラストもひどい。
「リンかけ」の最終回の意味の定着、
「今日という日のために生まれてきた」に比べて、
あまりにも酷いラストだ。
(男坂は別方向の伝説。なお続編は未見)

ちなみに風魔の古参ファンのツイートで、
「風魔はのどごしを楽しむ漫画」という慧眼があり、
目から鱗が落ちた。

そうか、古参ファンはもう意味を求めてなくて、
そこに存在していれば尊い、という悟りの境地にいるのかと驚いた。



ストーリーはのどごしではない。
腹に溜まって、人生の栄養になるものである。

腹にたまらなくていいのなら、
のどごしだけを追求することは、
そこそこ才能があれば誰でも出来る。
結婚しなくてよくて口説ければOKのイケメンと同じだ。
ケツを持たなくていいなら、
やり逃げはいくらでもできるのだ。



ケツを持つとは、
ストーリーが腹に落ちることをいう。
ラストまで味わった時、
なるほど、これとこれにはこういう意味があり、
すべてはこれのために収束したのか、
という納得がなければならない。

その、ケツの持ち方でストーリーの価値は決まる。

何度か書いているが、
GANTSは、ケツがひどかった。のどごしは神であった。
はじめの一歩も、伊達英二戦、ブライアンホーク戦までは神漫画だったが、
その後の急落ぶりは伝説級だ。

ストーリーの価値はケツで決まる。
しかし、儲かるか儲からないかはのどごしで決まる。


おそらく、この価値とカネの関係がねじれていることが、
いろんなストーリーがうまくいかない理由かもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 00:11| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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