シナリオを書くとはどういうゲームに勝つことだろうか?
面白そうなシチュエーションを発明したり、
いいキャラを発明したり、キャラとキャラの絡みを書くことだろうか?
それもあるけど、
一番大事なことは、ケツを持つかどうかだと思う。
それはつまり、そのストーリーはどうやって終わるのかに、
責任を持つことである。
どう終わるかを考えなくていいのなら、
いくらでも扇情的、
いくらでも逆張り、
いくらでも従来の枠組みをぶち壊す新しいもの、
性癖にまみれたり、
以前から見たかったものを羅列すること、
なんて簡単なのだ。
作るより破壊する方が簡単だ。
今ないものをとりあえず持ってくるだけでなんとかなる。
困難なのは、そして重要なことは、
「それにどういうオチをつけるのか」
ということだ。
上に出したような空騒ぎがあるとして、
その空騒ぎがいかにして決着するのかだ。
それが決着する、
すなわち単なる空騒ぎでなかったというからには、
その一連は、どのような意味であったのか?
が求められる。
いや、特に意味はないです、はただの空騒ぎで、
バラエティーショウとか猫動画とかと同じだ。
ストーリーはそのようなものではない。
「それにいったいどのような意味があったのか」がなくてはならない。
これはテーマとは微妙に異なる。
「このテーマを語るのに、すべては必然的な要素であった」
などが、意味ということに定義しよう。
なるほど、これらのもろもろは、
ただの意味のない空騒ぎではなく、
このテーマを語るための、
必然的に必要なパーツであり、
しかも念入りに組み立てられている、
という意味がない限り、
それは無責任なる投げっぱなしということである。
意味のない投げっぱなしは、
少しの才能があれば誰でも出来る。
たとえば「ファイアパンチ」は、逆張りの連鎖で、
魅力的に見えたキャラクターや設定をすりつぶして、
ケツを持たずに放り投げた、ひどい作品であった。
車田正美の漫画「風魔の小次郎」のラストもひどいものだ。
聖剣戦争の途中までは神漫画であったが、
その後の急落ぶりは伝説級だろう。
何の意味があったんや、の代表格である。
同様に、聖闘士星矢のラストもひどい。
「リンかけ」の最終回の意味の定着、
「今日という日のために生まれてきた」に比べて、
あまりにも酷いラストだ。
(男坂は別方向の伝説。なお続編は未見)
ちなみに風魔の古参ファンのツイートで、
「風魔はのどごしを楽しむ漫画」という慧眼があり、
目から鱗が落ちた。
そうか、古参ファンはもう意味を求めてなくて、
そこに存在していれば尊い、という悟りの境地にいるのかと驚いた。
ストーリーはのどごしではない。
腹に溜まって、人生の栄養になるものである。
腹にたまらなくていいのなら、
のどごしだけを追求することは、
そこそこ才能があれば誰でも出来る。
結婚しなくてよくて口説ければOKのイケメンと同じだ。
ケツを持たなくていいなら、
やり逃げはいくらでもできるのだ。
ケツを持つとは、
ストーリーが腹に落ちることをいう。
ラストまで味わった時、
なるほど、これとこれにはこういう意味があり、
すべてはこれのために収束したのか、
という納得がなければならない。
その、ケツの持ち方でストーリーの価値は決まる。
何度か書いているが、
GANTSは、ケツがひどかった。のどごしは神であった。
はじめの一歩も、伊達英二戦、ブライアンホーク戦までは神漫画だったが、
その後の急落ぶりは伝説級だ。
ストーリーの価値はケツで決まる。
しかし、儲かるか儲からないかはのどごしで決まる。
おそらく、この価値とカネの関係がねじれていることが、
いろんなストーリーがうまくいかない理由かもしれない。
2021年02月16日
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