芸術の全ての原動力は、表現の衝動だ。
他人を楽しませようとか、感動してもらおうとか、
そんなのはそもそも関係ない。
普通には表現できない形にならない何かを、
身をよじって、普通じゃない方法で、構築する。
そんな手間をかけてまでそれをやるのは、
そうとしか表現する手段のない、
内なる衝動の結果である。
それ自体は人間の根源力である。
しかし、それとストーリーを書くということは、
同じ部分もあれば異なる部分もある。
その表現欲とのつきあいかた。
実のところ、表現欲というのは、
あなた特有のものではない。
ほとんどの人間が持つ、共通のものだ。
だから実は芸術を理解するのは簡単で、
「ほほうこういう衝動を表現したのだな」
と共鳴できれば正解なのだ。
その人しかない独自の衝動というのは滅多になくて、
大体は似たようなことはみんな覚えたことのあるものである。
それを、芸術という物体を通して共有するだけのことだ。
芸術が難しいのは、それを言葉で捉えようとするからで、
そもそも言葉で表現できない「なにか」が、
芸術の正体だと僕は思う。
だから言葉で捉えるのではなく、「ふむふむ」でいいのだ。
ところで、
ストーリーは芸術でもある。
だから、表現欲に支えられて作られている。
ところが、
芸術というのは初心者から巨匠まであって、
初心者によくある、ありがちな表現欲というのがあるのだ。
それはもう良くあるすぎて飽きているというのに、
表現する人はそれが初めてだから、
なんという素晴らしいものを作ったのだろうと、
悦に入りがちなのだ。
おそらくそれは、
美大に入って一年生のうちに経験することだろう。
ストーリーを書く人は、周囲に表現者が少ないことが多い。
だから、「よその表現初心者が失敗することあるある」
を眺めずに育ってしまう。
美大の一年生は、あまりにも周りがそういう人たちが多いから、
「それじゃありがちで平凡なんだ」と気づき、
自分なりの表現衝動とはなんだろう、
という芸術そのものに向き合うことになると思う。
ところがシナリオスクールにでも通わない限り、
そうした環境はないものだから、
孤独なストーリーテラーは、
初心者がやりがちなことで満足してしまい、
次の段階に行けず同じことを繰り返す。
そのよくある表現とは、
以下のようなものだ。
・俺はすごい
・俺の思考や思想は群を抜いて素晴らしく、披露するべきものである
・俺はつらい
・俺の辛さを知ってくれ
・俺は幸福になりたい
・だから幸福な様を描く、しかし他人の幸せはむかつく
・だからハッピーエンドはぜんぶぶっ壊す
・俺は楽して幸せになりたい
・だから主人公は自ら幸せを掴むのではなく、誰かに幸せにしてもらう
・今現代の縮図を作品内にこめた、これは時代への挑戦であり皮肉である
などだろうか。
これは自分の奥底にある、渦巻いた、
言葉にしにくい感情であるから、
これを芸術の形として昇華させることに、
なにやら崇高ささえ感じてしまい、
それが俺の使命なのだとすら思い込む。
だがそれは、芸術を志す者が、
最初にかかるはしかのようなものなのだ。
これらは三歳児でやるべきことであり、
大人がやるべき芸術ではないのだ。
周りに似たような人がいれば、
なんという初心者、と気づくことが可能だけど、
周りにいないので気づくことすら出来ない。
むしろ、「どこにもいない俺だけが世界に一人」
などと自負してしまいがちである。
これは誤りだ。
たいへん愚かな、大海を知らぬ子供の誤りである。
芸術というものは、人類が生まれてから現在に至るまで、
累々とつくられ続けたものである、ということを知らないのだ。
ストーリーに限って言えば、
小説家になりたいとか、シナリオライターになりたいとか言うやつに限って、
過去の名作を見たことがないという。
みんなそれありきで次の作品を待っているというのに、
それを見ずに違うことをやりさえすれば勝ちだと思っている。
なぜなら俺は崇高だからである。
それは、自分と世界が見えていないということだ。
自分と自分の芸術と、世界しかないと思っている。
そうではなく、
自分と自分の芸術と、他人と他人の芸術と、世界がある。
自分の芸術は、他人の芸術と比較されて論じられる。
では、他人の芸術と比べて、
あなたの芸術の何が優れているのか?
「俺の衝動を表現し尽くしたこと」ではない。
技巧が優れていればそれも評価の対象だけど、
ストーリーの技巧は、
粘土を捏ねてアニメを作ったとか、
30メートルの鉄板でガンダムを作ったとか、
そういう分かりやすいものでないため、
専門家以外は理解しない。
理解できるのは、
「どのような他にない、新しい衝動からこれが出来たか」
である。
それが、初心者や三歳児によくある衝動ならば、
それは平凡なのだ。
それが恥ずかしいことである、という意識はまず持とう。
オナニーとはそういうことである。
いや、俺は、「俺はすごい」に関して、
世界一のストーリーを作ったのだ、
これは人類史におけるあらゆる「俺はすごい」を凌駕した、
ベスト作品である、
という主張の時のみ、「俺はすごい」は、
鑑賞の価値があるだけのことである。
そしてそれを見たとしても、自慢話を聞かされるだけだがね。
やっぱり平凡な結論でしかない。
世の中にはそんな、初心者の芸術があまりにも転がっていて、
それはゴミなのだと知ろう。
それはあまりにもありふれた表現欲だ。
あなたには主張があるか?
世の中を変える素晴らしく新しい価値観を持ち、
それを世の中に広めたいと思っているか?
だとしたら、あなたはストーリーテラーに向いていない。
そうでない何かを表現し、
それを皆と愛でたいと思った時、
三歳児の次の段階に、表現者として進むことになる。
もし主張があり、それが世の中を変えられるのならば、
政治家かYouTuberになりなさい。
芸術家がやるべきことは、世界を直接変えることではない。
世界に影響を与えることである。
それは、共鳴という現象によって起こる。
表現欲とどう付き合うか?
「今俺は性欲を感じていて、それに支配されて動いている」
感覚は理解できるよね?
それと同様に表現欲を感じられるようになることだ。
性欲は賢者になれば抜くことができる。
表現欲も、どこかで表現欲を発散させて、抜くことで、
あなたが表現するべき芸術の姿を見ることができる。
つまり、賢者になる方法を手に入れることだ。
賢者の目で見て、あなたの芸術が大したものでないとわかった時が、
一番辛いだろう。
次の作品をまだ作るかどうかは、自分で決めなさい。
巨匠とは、そんな毎日を続けてきて、
なお素晴らしい作品を作った人のことだ。
2021年02月17日
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