日本で天気の話から入る理由は、
同調効果を狙うためである。
今日あったかいですね、昨日から冷えますね、
夜はまだ寒いですよね、三寒四温ですなあ、
明日雨らしいですよ、梅が咲いてましたね、
などなどなど。
日本は四季の国で、雨が沢山降る国なので、
時候の挨拶は天気の話が多い。
野球が国民的スポーツだった頃は、
どこが勝ったが時候の挨拶だった時代もあった。
巨人ファンと阪神ファンで話が変わってしまったが。
そもそもこれは何のためにあるのだろう。
同調効果を狙ったためである。
はじめて会う人は、まだ他人で、
敵かも知れない。
そうではなくて、
私はあなたと同じなのですよ、
ほら、今日あったかいと思うことは同じですよ、
というためにするのである。
天気の話でなくても、共通の話題について話すことは、
それを本気で思ってなくても話す意味がある。
同調することで、
他人ではなく味方である、
という気分を共有するためだ。
女子を口説く時も、
レストランで同じものを頼んだり、
同じ仕草を真似することは同調効果があり効果的だ、
などとよく言われる。
他人という警戒を解き、身内の心に入り込むには、
同調効果を狙うと良い。
これはあなたとわたしの関係の時に使えるテクニックだ。
第三者だけで行う、
イマジナリラインの世界の向こう側では使えない。
いや、舞台の漫才なんかは、
ネタの前に世間話から入ることがある。
首相変わりましたね、マスクどうしてます、
などと客に話しかけてイマジナリラインを壊すことがある。
落語などは更に巧妙で、
その世間話がオチの伏線になっていることもある(枕)。
こうしたテクニックは、
わたしとあなたの垣根をなるべく取り払い、
同じなんですよ、
という同調のためにあると思う。
だが三人称形式である映画では、
この手法は使えない。
カメラ目線で話しかけるわけにはいかないし、
既に記録され編集したものが、
時候に合わせて話を変えることもできない。
小説の一人称はどうか。
私はこのように考えている、
という内面の吐露を延々繰り返すことで、
同調を図ることがある。
考えや思いを共有することで、
同調が次第に進むからである。
演劇における独白などもこれに当たるだろう。
三島由紀夫「金閣寺」は、金閣寺を焼いた男の内面に、
ひたすら同調しようとした一人称小説である。
犯罪小説なんかはこれに近いかな。
三人称形式ではこれは使えない。
「私は今このように考えているのだ」
と、ひたすら言う人はいない。
独り言ぶつぶつおじさんになってしまう。
現実世界を映した映画では、
自分のために自分の考えを言うことはなく、
誰か他人に自分の考えを明らかにする文脈でしか、
自分の考えを伝えない。
だから三人称形式では、
一人称形式で使える、独白による同調、
二人称に話しかける、時候や共通点による同調、
このふたつが禁じ手になるわけだ。
(手っ取り早く、ボイスオーバーやナレーターによって、
独白の代わりをすることもなくもない。
しかしそれは拙い手であることは理解していた方が良い。
「私の優しくない先輩」という川島海荷全盛期主演、
はんにゃ金田全盛期主演の、
失敗した映画を見ると良いだろう。
ボイスオーバーが半分くらいあって、
「はよ進めや」と思ってしまう)
あるいは、ストーリーの外の世界の力を使う手がある。
みんなと沢山同調している人気芸能人、
テレビやYouTubeの人気者を使うのは、
これが理由だ。
その人が出るだけで、知らない敵ではなく、
身内が出ている、という見方になるわけである。
(ドラマ風魔は発表当初、「誰も知ってる人が出ていない」
という理由だけで敬遠された。
身内が出ている、というだけで運動会は盛り上がる)
世界情勢を入れ込んで、政治を揶揄する方法もたまに使われる。
アメリカ映画で、
これは共和党と民主党の争いのことなのである、
なんて解説をたまに見かける。
人は、親しみやすいものを見たがり、
知らないものは忌避する傾向にあるわけだ。
シナリオにおける同調は、
これらの道具を一切使わずに実現する。
感情移入という、物語特有の現象でだ。
このブログでは、感情移入を非常に狭い、
特別な意味で使っている。
「そのシチュエーションに放り込まれたら、
誰もがそう思い、そう行動するだろう」
を、実践することである。
たとえば。
おばあさんが道に迷っていて、
いかにも不安げにしている。
主人公はどうしても急がないといけないので、
最初は無視して通り過ぎる。
しかし気になって戻ってきて、「どうしました?」と聞く。
などである。
現実に全員がおばあさんを助けるかはわからない。
しかしそのシチュエーションで正解を引く行為を、
我々は好ましく思う。
だからこの人は敵ではなく身内だと感じるわけだ。
感情移入の結果、同調が起こるのだ。
ここで、
すぐにおばあさんを助けず、一回は無視するところがポイントだ。
すぐに助けたら、急いでる理由は無視かよ、
嘘臭えな、偽善、となるだろうからだ。
一回は自分を優先させようとするがやっぱり、
という迷いに本当らしさがあるため、
ここで感情移入が起こるわけである。
感情移入は、
「私はこの人とはちがう他人であるが、
このシチュエーションに放り込まれたら、
この人と同じことを思い、するだろうなあ」
という感覚による同調だと言える。
時候の挨拶が目の前の天気を共有することによる同調だとすれば、
感情移入は、
「シチュエーションとその対応」
による同調であるわけだ。
だから、
多くの人が「それは違うだろ」という対応を取る人には、
我々は感情移入できない。
渡部の多目的トイレは、
すぐに会見を開き、
「一万円は安すぎました。そして二度としません。
希を泣かせたくない」と、
素直な対応をしていれば同情すらされたかも知れない。
「すぐにちゃんと謝ったんだから許してやりなよ」とね。
それがなかったため、
感情移入するべき同調が失われた。
しかも過去渡部を信用したのに裏切られたという、
同調から敵に行ったことで、
「二度と信用しない」という強い反感になったわけだ。
森の失言だって誰かがフォローすればいいものを、
本人がわかってない感じが、
「それは違うだろ」に結果的になってしまい、
同調や感情移入を失ったわけである。
フィクションでは、
「このシチュエーションでどうする?」
という問いをまず面白くした方が、面白くなる。
おばあさんが困ってるとか、浮気とか失言なんて、
現実生活でよくあるシチュエーションに過ぎないので、
たいして耳目を集めない。
もっと物語的で、さすがフィクション世界、
という面白い、滅多にないシチュエーションを持ってくるのだ。
で、主人公の抱える事情も前振っておき、
「この人がこう思い、こう判断してこう行動するのはわかるわ」
となった時に、
感情移入という同調が起こるのである。
繰り返しになるけど、
主人公と作者が同一だと、主観的な判断になってしまい、
客観的に「誰もがそう思う」を見失いがちだ。
「だって俺はこう思うんだもの」の独善の罠にはいる。
自分とは遠いものに、
同調を起こさせるのが、
物語特有の感情移入という現象だ。
この同調感覚をうまく作れると、
信用していた頃の渡部のように、
あなたとわたしは同一である、
という感覚が継続する。
そしてそれが、
物語の先を見たい、
唯一の感覚ではないかと思う。
なぜストーリーのその先を気にするのか、
という問いの答えは、
同調した人がピンチならば、気になるだろ?
ということに過ぎないと思う。
人気キャラのシリーズものが強いのは、
同調が最初から起こっているため、
続きが最初から気になるからである。
(そしてその同調に作品内で失敗したキャラから消えてゆく)
あなたとわたしの間の垣根を溶かして、
感覚を同調すること。
そのためにどういう方法論があるか、
身の回りを見て分析してみたまえ。
2021年02月23日
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