2021年02月23日

同調効果

日本で天気の話から入る理由は、
同調効果を狙うためである。


今日あったかいですね、昨日から冷えますね、
夜はまだ寒いですよね、三寒四温ですなあ、
明日雨らしいですよ、梅が咲いてましたね、
などなどなど。

日本は四季の国で、雨が沢山降る国なので、
時候の挨拶は天気の話が多い。

野球が国民的スポーツだった頃は、
どこが勝ったが時候の挨拶だった時代もあった。
巨人ファンと阪神ファンで話が変わってしまったが。

そもそもこれは何のためにあるのだろう。
同調効果を狙ったためである。


はじめて会う人は、まだ他人で、
敵かも知れない。
そうではなくて、
私はあなたと同じなのですよ、
ほら、今日あったかいと思うことは同じですよ、
というためにするのである。

天気の話でなくても、共通の話題について話すことは、
それを本気で思ってなくても話す意味がある。
同調することで、
他人ではなく味方である、
という気分を共有するためだ。

女子を口説く時も、
レストランで同じものを頼んだり、
同じ仕草を真似することは同調効果があり効果的だ、
などとよく言われる。

他人という警戒を解き、身内の心に入り込むには、
同調効果を狙うと良い。


これはあなたとわたしの関係の時に使えるテクニックだ。

第三者だけで行う、
イマジナリラインの世界の向こう側では使えない。


いや、舞台の漫才なんかは、
ネタの前に世間話から入ることがある。
首相変わりましたね、マスクどうしてます、
などと客に話しかけてイマジナリラインを壊すことがある。
落語などは更に巧妙で、
その世間話がオチの伏線になっていることもある(枕)。

こうしたテクニックは、
わたしとあなたの垣根をなるべく取り払い、
同じなんですよ、
という同調のためにあると思う。

だが三人称形式である映画では、
この手法は使えない。

カメラ目線で話しかけるわけにはいかないし、
既に記録され編集したものが、
時候に合わせて話を変えることもできない。


小説の一人称はどうか。

私はこのように考えている、
という内面の吐露を延々繰り返すことで、
同調を図ることがある。
考えや思いを共有することで、
同調が次第に進むからである。
演劇における独白などもこれに当たるだろう。
三島由紀夫「金閣寺」は、金閣寺を焼いた男の内面に、
ひたすら同調しようとした一人称小説である。
犯罪小説なんかはこれに近いかな。


三人称形式ではこれは使えない。
「私は今このように考えているのだ」
と、ひたすら言う人はいない。
独り言ぶつぶつおじさんになってしまう。

現実世界を映した映画では、
自分のために自分の考えを言うことはなく、
誰か他人に自分の考えを明らかにする文脈でしか、
自分の考えを伝えない。

だから三人称形式では、
一人称形式で使える、独白による同調、
二人称に話しかける、時候や共通点による同調、
このふたつが禁じ手になるわけだ。

(手っ取り早く、ボイスオーバーやナレーターによって、
独白の代わりをすることもなくもない。
しかしそれは拙い手であることは理解していた方が良い。
「私の優しくない先輩」という川島海荷全盛期主演、
はんにゃ金田全盛期主演の、
失敗した映画を見ると良いだろう。
ボイスオーバーが半分くらいあって、
「はよ進めや」と思ってしまう)


あるいは、ストーリーの外の世界の力を使う手がある。

みんなと沢山同調している人気芸能人、
テレビやYouTubeの人気者を使うのは、
これが理由だ。
その人が出るだけで、知らない敵ではなく、
身内が出ている、という見方になるわけである。
(ドラマ風魔は発表当初、「誰も知ってる人が出ていない」
という理由だけで敬遠された。
身内が出ている、というだけで運動会は盛り上がる)

世界情勢を入れ込んで、政治を揶揄する方法もたまに使われる。
アメリカ映画で、
これは共和党と民主党の争いのことなのである、
なんて解説をたまに見かける。

人は、親しみやすいものを見たがり、
知らないものは忌避する傾向にあるわけだ。


シナリオにおける同調は、
これらの道具を一切使わずに実現する。

感情移入という、物語特有の現象でだ。

このブログでは、感情移入を非常に狭い、
特別な意味で使っている。

「そのシチュエーションに放り込まれたら、
誰もがそう思い、そう行動するだろう」
を、実践することである。


たとえば。

おばあさんが道に迷っていて、
いかにも不安げにしている。
主人公はどうしても急がないといけないので、
最初は無視して通り過ぎる。
しかし気になって戻ってきて、「どうしました?」と聞く。

などである。
現実に全員がおばあさんを助けるかはわからない。
しかしそのシチュエーションで正解を引く行為を、
我々は好ましく思う。
だからこの人は敵ではなく身内だと感じるわけだ。

感情移入の結果、同調が起こるのだ。

ここで、
すぐにおばあさんを助けず、一回は無視するところがポイントだ。
すぐに助けたら、急いでる理由は無視かよ、
嘘臭えな、偽善、となるだろうからだ。
一回は自分を優先させようとするがやっぱり、
という迷いに本当らしさがあるため、
ここで感情移入が起こるわけである。


感情移入は、
「私はこの人とはちがう他人であるが、
このシチュエーションに放り込まれたら、
この人と同じことを思い、するだろうなあ」
という感覚による同調だと言える。

時候の挨拶が目の前の天気を共有することによる同調だとすれば、
感情移入は、
「シチュエーションとその対応」
による同調であるわけだ。


だから、
多くの人が「それは違うだろ」という対応を取る人には、
我々は感情移入できない。

渡部の多目的トイレは、
すぐに会見を開き、
「一万円は安すぎました。そして二度としません。
希を泣かせたくない」と、
素直な対応をしていれば同情すらされたかも知れない。
「すぐにちゃんと謝ったんだから許してやりなよ」とね。

それがなかったため、
感情移入するべき同調が失われた。

しかも過去渡部を信用したのに裏切られたという、
同調から敵に行ったことで、
「二度と信用しない」という強い反感になったわけだ。

森の失言だって誰かがフォローすればいいものを、
本人がわかってない感じが、
「それは違うだろ」に結果的になってしまい、
同調や感情移入を失ったわけである。


フィクションでは、
「このシチュエーションでどうする?」
という問いをまず面白くした方が、面白くなる。

おばあさんが困ってるとか、浮気とか失言なんて、
現実生活でよくあるシチュエーションに過ぎないので、
たいして耳目を集めない。
もっと物語的で、さすがフィクション世界、
という面白い、滅多にないシチュエーションを持ってくるのだ。

で、主人公の抱える事情も前振っておき、
「この人がこう思い、こう判断してこう行動するのはわかるわ」
となった時に、
感情移入という同調が起こるのである。

繰り返しになるけど、
主人公と作者が同一だと、主観的な判断になってしまい、
客観的に「誰もがそう思う」を見失いがちだ。
「だって俺はこう思うんだもの」の独善の罠にはいる。


自分とは遠いものに、
同調を起こさせるのが、
物語特有の感情移入という現象だ。

この同調感覚をうまく作れると、
信用していた頃の渡部のように、
あなたとわたしは同一である、
という感覚が継続する。

そしてそれが、
物語の先を見たい、
唯一の感覚ではないかと思う。


なぜストーリーのその先を気にするのか、
という問いの答えは、
同調した人がピンチならば、気になるだろ?
ということに過ぎないと思う。

人気キャラのシリーズものが強いのは、
同調が最初から起こっているため、
続きが最初から気になるからである。

(そしてその同調に作品内で失敗したキャラから消えてゆく)



あなたとわたしの間の垣根を溶かして、
感覚を同調すること。

そのためにどういう方法論があるか、
身の回りを見て分析してみたまえ。
posted by おおおかとしひこ at 00:33| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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