全く知らない人の全く知らない世界は、
好奇心を引っ張れるだろうか?
好奇心の豊かな観客ならば、
「ほほう知らない世界の知らない人の話か。
面白いかどうか分からないが覗いてみよう」
と思う。
僕はこっち。
でも最近、ほとんどの人、
とくに疲れた大人は、
「知らない世界のことを理解するのがめんどう。
知らない人に興味が湧かない」
ってなってるような気がする。
「知ってるところで安心した結論が出るまででいいや」
って思っている感じ。
だから心の底では飽きてるんだけど、
今更別のところに首を突っ込まなくなった感じ。
同じ芸能人が出ている。
同じパターンの話ばかり。
似たような医療ものや刑事ものやアクションもの。
定番に手を出す人は、
好奇心が旺盛ではない。
失敗したくないから、というのもある。
知らない味の料理に、
今挑戦するか、という場面のようだ。
物語に手慣れた人ならば、
陥ったシチュエーションとセンタークエスチョンさえ分かれば、
それがハズレかどうか、
なんとなくわかるものである。
仮にハズレだったとしても、
そのシチュエーションが想像を掻き立てるならば、
それはハズレでも楽しめるだろう、
と予測が立つ。
だから好奇心でその世界に入ることができる。
ほとんどの人はそうではない。
だから、
好奇心の湧くシチュエーション、
好奇心の湧くセンタークエスチョンは、
実はヒキにならないのかも知れない。
それよりも、
見たことのある芸能人を見る、
同じことを繰り返すことを、選択するのだろう。
今の興行は、好奇心に訴えたら負け。
そんな逆説的な皮肉も言いたくなるものだ。
世界が新しく拡大していく時は、
え、なに、こんなのあるの、おもしろそう、
という好奇心に満ち溢れた子供のような状態になる。
今の日本はそうなってないのだろう。
誰からも騙されないぞ、
となるべく門戸を閉じていて、
分かるものだけに小額の投資をする日々が続いているのだと思う。
みんな守るのに必死なんだな。
そんな人たちにも響く、
みんなの好奇心を引く何かは作れるのだろうか。
これは、感情移入とは別のベクトルである。
へえ、そんなことがあるんだ、おもしろそう、
と好奇心に訴える、
この情報化社会でも手垢のついていないものを、
我々は見つける、または、発明しなければならない。
前者は日々の取材によって、
後者はデスゲームなどのルール的構築で、
ということになろうか。
好奇心をそそるものを見つけるのは、
序盤を書くことだ。
それと、
中盤の、
感情移入をうまく書いたり、
二転三転する面白さを書いたり、
終盤の見事な山場とテーマへの定着を描くことは、
実は全く別の才能だと僕は思う。
中盤と終盤が出来ていても序盤のヒキが悪いものは、
今興行に乗らない。
序盤のヒキが良いのは興行になるかもしれないが、
中盤終盤の満足度が低く、
将来的な市場を狭めるだけだと思う。
(前いまいちだったから今度はいいや)
まことにシナリオというのは難しいのだ。
好奇心をもとう。
みんなの好奇心はなんだろう。
それを見つける力と、
ストーリーを構築する力は異なる才能だ。
両方鍛えよう。
2021年02月24日
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