2021年02月24日

好奇心

全く知らない人の全く知らない世界は、
好奇心を引っ張れるだろうか?


好奇心の豊かな観客ならば、
「ほほう知らない世界の知らない人の話か。
面白いかどうか分からないが覗いてみよう」
と思う。
僕はこっち。

でも最近、ほとんどの人、
とくに疲れた大人は、
「知らない世界のことを理解するのがめんどう。
知らない人に興味が湧かない」
ってなってるような気がする。

「知ってるところで安心した結論が出るまででいいや」
って思っている感じ。
だから心の底では飽きてるんだけど、
今更別のところに首を突っ込まなくなった感じ。

同じ芸能人が出ている。
同じパターンの話ばかり。
似たような医療ものや刑事ものやアクションもの。

定番に手を出す人は、
好奇心が旺盛ではない。

失敗したくないから、というのもある。
知らない味の料理に、
今挑戦するか、という場面のようだ。


物語に手慣れた人ならば、
陥ったシチュエーションとセンタークエスチョンさえ分かれば、
それがハズレかどうか、
なんとなくわかるものである。

仮にハズレだったとしても、
そのシチュエーションが想像を掻き立てるならば、
それはハズレでも楽しめるだろう、
と予測が立つ。

だから好奇心でその世界に入ることができる。


ほとんどの人はそうではない。


だから、
好奇心の湧くシチュエーション、
好奇心の湧くセンタークエスチョンは、
実はヒキにならないのかも知れない。

それよりも、
見たことのある芸能人を見る、
同じことを繰り返すことを、選択するのだろう。


今の興行は、好奇心に訴えたら負け。
そんな逆説的な皮肉も言いたくなるものだ。
世界が新しく拡大していく時は、
え、なに、こんなのあるの、おもしろそう、
という好奇心に満ち溢れた子供のような状態になる。
今の日本はそうなってないのだろう。
誰からも騙されないぞ、
となるべく門戸を閉じていて、
分かるものだけに小額の投資をする日々が続いているのだと思う。
みんな守るのに必死なんだな。


そんな人たちにも響く、
みんなの好奇心を引く何かは作れるのだろうか。

これは、感情移入とは別のベクトルである。

へえ、そんなことがあるんだ、おもしろそう、
と好奇心に訴える、
この情報化社会でも手垢のついていないものを、
我々は見つける、または、発明しなければならない。

前者は日々の取材によって、
後者はデスゲームなどのルール的構築で、
ということになろうか。


好奇心をそそるものを見つけるのは、
序盤を書くことだ。
それと、
中盤の、
感情移入をうまく書いたり、
二転三転する面白さを書いたり、
終盤の見事な山場とテーマへの定着を描くことは、
実は全く別の才能だと僕は思う。

中盤と終盤が出来ていても序盤のヒキが悪いものは、
今興行に乗らない。
序盤のヒキが良いのは興行になるかもしれないが、
中盤終盤の満足度が低く、
将来的な市場を狭めるだけだと思う。
(前いまいちだったから今度はいいや)

まことにシナリオというのは難しいのだ。


好奇心をもとう。
みんなの好奇心はなんだろう。
それを見つける力と、
ストーリーを構築する力は異なる才能だ。

両方鍛えよう。
posted by おおおかとしひこ at 00:19| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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