2021年03月04日

究極の二択を用意するのだ

たとえば、
「ここでAを選べば身分の保証があり、一生心配せずに暮らせるが、
権力の犬になり、他人を罰し続ける人生。
Bを選べばどうなるか不安しかないが、少なくとも自分の心は自由でいられる人生」
などのようにだ。

一生を賭けた選択をさせる。
そして十年後、Aを選んだ男と、Bを選んだ男が対決する。
それがストーリーというものだ。


人間の性格や人生観や哲学は、
生まれ持った環境や遺伝子のみで決まるのではない。

人生のいろいろな場面で、
選択して来たことでも決まる。

あることで成功体験を積んだ人は、
そのことがイージーで人生の基本だと思うようになるし、
最初にそれを失敗した人は、
失敗しないように取り繕う人生を歩むようになる。

まったく同じ初期値でも、
そうした一つ一つの選択が、
人を形成していく。


だから、
究極の二択を用意するのだ。
両極端がいいよね。

その、どちらかを選んだだけなのに、
その後の人生は180度変わってしまうような、
そういう二択を考えてみるのは面白い。


正義と悪の対峙の場面で、
回想シーンで(あとづけで)語られることが多いかも知れないが、
せっかく映画なのだから、
それを最初の選択から順で描くのも面白いと思うんだよね。

もちろん二者は対比になるから、
それらがコンフリクトで対決するところからが、
ストーリーの本番になるだろう。


対比的な二者は、似ているところもある。
同族嫌悪的なこともあるし、
親しみや理解があることもあるだろう。

そんな「もう一人の自分」との対決は、
人生とはなんだろう、
と考えさせて面白いのである。


究極の二択で思い出すのが、
マトリックスの青い薬と赤い薬のシーンだ。
ネオは赤い薬を飲み、目覚めて救世主となったが、
あの場面で青い薬を飲み、眠り続けることを選んだ男がいたとしよう。

その男はその後どうなったのか。
仮想世界で出世し、逆に仮想世界であることを知っていてそれを利用して、
たとえば大統領になっているかも知れない。

その男がマトリックス世界の代表として、
ネオと対決するバージョンのストーリーを考えることも出来るよね。

ていうか続編の話を聞いて、僕はそれを妄想したわ。


武論尊/池上遼一の「サンクチュアリ」は、
難民キャンプで育った少年二人が、
じゃんけんで決めた運命に従い、
一方は裏社会から日本のトップヤクザに上り詰め、
一方は表社会から日本のトップの政治家に上り詰める、
という対比的な運命と邂逅を描いた大河漫画だった。

あの時じゃんけんの勝敗が逆だったらどうなったか、
なんて妄想がとても捗る、
いい構造の漫画だった。

何かの手違いで赤ん坊を取り違えて、
全く別の運命を歩んだ二人の男が、
という話もよくある。

究極の二択は、そのように人生と絡ませると面白い。
posted by おおおかとしひこ at 00:02| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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