キャラクターメイキングには経験則があって、
「ブラジルの医師」を避けるべきだという話がある。
濃いものを組み合わせてはいけない、
というものだ。
初心者のころにはよくあるものだ。
二つ名があって、実は〇〇の息子で正規の血を引いていて、
なおかつ暗黒武闘術の使い手である、
なんて中二設定でよく見る。
強いものと強いものをかけ合わせたら、
さらに強いキャラクターになるだろうという考えだ。
「ブラジルの医師」はそれを戒める。
濃いものばかりを組み合わせては、
「そのキャラクターの本質がなんなのか、
一個に絞れないため、
逆にそのキャラがぼやける」というわけだ。
転校生を想像すればわかる。
色んな特徴があって覚えきれないよりも、
「分り易く、強く印象的なものが際だち、
しかも他と被らないもの(立っているもの)」
が一つだけあるほうが強い。
そういうことを目指そうぜ、
というのが「ブラジルの医師」の教えである。
アメリカでは、たぶんブラジルも医師も濃い要素なのだろう。
さて、じゃあ、たった一つに絞ればいいかというと、
それだと人間の魅力として足りないと僕は思うんだよね。
何故なら、人間の魅力というのはギャップで決まるからだ。
Aなのに、実はBだ、
ということが魅力になるわけだ。
だから、二つのキャラを立てようぜ、
というのが本題だ。
不良だが実は優しい、
という基本的なギャップで考えよう。
ギャップはAとBの要素が反対のときにおこる。
全然関係ない要素のようでありながら、
反対の関係のときにギャップがある、
ということになるわけだ。
とはいえ、AとA-みたいな真反対では面白くない。
違う要素でずれていながらも、
なぜか正反対になっているのが望ましい。
で、ここからがようやく本題なのだが、
「不良なのに優しい」ギャップをつくるときに、
ただ不良であることをみせて、
ただ優しい場面をみせたって、
ちっともキャラクターの魅力にはならないということだ。
どういう事かというと、
「不良としてのキャラが立っている場面」と、
「優しいキャラが立っている場面」の、
二つとも立ってる場面が必要なのだ。
何故かというと、
まずは不良であることを強烈に印象づけるためである。
ただの不良であるシーンを描くだけでは、
ただの説明シーンである。
そうではなくて、
「こいつはこんなにキャラの立っている不良だ」
という思わず引き込まれるシーンをまず作らないといけないのだ。
それは新しい不良の見せ方で、
こいつはヤバイぞ、と類型にない面白いものがなくてはならない。
そこまで前提が出来てれば、
ただ優しいシーンをみせればよいか?
それでもない。
「実は優しいシーン」も、
キャラが立っている見せ方にしないといけないのである。
両者ともキャラの立っている、
オリジナルな場面であるからこそ、
ギャップが印象づくのである。
ベタなやつ、「空き地で捨て猫を拾う」というシーンは、
それまでになかったタイプのやさしさの表現であったからこそ、
歴史に残っているのだ。
つまり、「こんなに優しいんだ」という新しくてキャラの立っているシーンが、
前のとんでもない不良という立っているシーンの裏になるからこそ、
印象的な裏表になり、
ギャップの魅力があるように見えるのだ。
そもそもどこかで見たようなシーンはキャラクターの魅力でもなんでもない。
そうではなくて、
新しい不良の場面と、新しいやさしさの場面、
この二つの間にあるギャップ、
それが新しいギャップの魅力を描くのである。
まったく違う二つ、ブラジルと医師ではなく、
関係ある二つのものを作り上げることで、
キャラクターのギャップの魅力をつくっていくことだ。
またドラマ風魔を引くが、
主人公の小次郎は、
表の面ははっちゃけて山猿のようなノリのいい男であるが、
裏の面はどこか冷めている、
という二面性をもって描かれている。
これは原作にはなかった実写小次郎の魅力である。
色々言われていた忍びのことを、
自分の目で確かめて、体験したい、
というのがほんとうの欲望で、
冷めた面は、その後表の面に統合されたようにはなってる。(成長、変化)
しかし、とくに序盤、2話くらいまでに、
そのようなちょっとしたギャップを作ることで、
ただの山猿ではない、ただの漫画のキャラではない、
ということをにじませるのに有効なキャラづくりになっているわけだ。
全然別のギャップの魅力を考えたとしても、
そのAとBを、どういうキャラの立った場面で見せるか、
ということは、考えに考えたほうがいいだろう。
ただの説明シーンにするなんてもったいない。
その魅力爆発のシーンをつくるだけで、
そのキャラは永遠の魅力を獲得するかもしれない。
2021年03月06日
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