2021年03月07日

変身願望

フィクションの役目の一つは、
変身願望をかなえることにある。
それは、ほとんどの人が、
「今の私は本当の私ではない」と感じていて、
「もし本当の私を目覚めさせることが出来たら、
どんなにかいいだろう」と思っているからだ。


変身ヒーローもの、
芋くさい人が都会的におしゃれになっていくやつ、
もう一つの人格が目覚めるもの
(多重人格、気を失ってるときだけは別人、酒、車に乗ったときだけ別人など)、
ある時は〇〇で、別の時は〇〇の複数の人格をつかいわけるもの、
などなどは、
こうした変身願望を叶えるものだ。

何か物語的な力によって、
主人公は、
「普段の(間違っている)私と違う、
別の(本当の)私を発揮する場を掴む」
ということだ。

本当の私が先にあり、
何かの力によって、間違った私を抑えつけられるパターンもあるだろう。
その場合、冤罪ものとか、逃亡ものとかになるかもしれない。
会社という牢獄もあり得るか。

いずれにせよ、
カタルシスのあるところは、
「本当の私なら、この仮の私ではできなかったことが、
できる」
ということだ。

ただビジュアルが変身するとか、
ただおしゃれになるのは変身ものとは言わない。
変身ヒーローによって、
普段ならできない悪を退治するとか、
おしゃれになったことでモテるとか、
自信がつくとか、
ほんとうの願望をかなえるところに、
この変身ものの眼目はある。

ただ変身しても何もならないのなら、
それは変身ものとは言わない。

もちろん、
変身前と変身後は、なるべく違うものが望ましい。
そうでない限り、
「本当の私はここにいなくて、
本当の私がついに誕生したのだ」
というビジュアルにならないからだ。
その差異をビジュアルで語るのが、映像言語というものである。

変身願望は、
主人公であるとは限らない。
脇役が変身してもよい。
親友が童貞を夏に捨てた結果、別人になってしまっても良い。
彼女が金持ちになってしまって、変わってしまってもよい。

変身ものがずるいのは、
「変身しても元に戻る」があるところだ。
変身願望は「変身してしまうことへの恐怖」と一体で、
「いつでも元に戻れる」という安心感が重要かもしれない。

しかし物語が進んでいくと、
「仮の私と、本当の私、どっちが本当の私なのか」
という焦点に話は移ってゆき、
人格統合の瞬間が山場のひとつになるだろう。

仮面ヒーローは、いずれ他人に真の顔を晒すドラマがあるということだ。
(最近の仮面ライダーはそうした通過儀礼を経ているのだろうか。
知らないのでわからない)

スパイダーマン2(ライミ版)が素晴らしいのは、
そうしたドラマを正面から描いているところである。
隣の家の幼馴染に対して、
自分がどのような人間であるのか、
その正体を晒すことがドラマになるわけだ。

たとえ嫌われてもこれが本当の自分である、
というテーマは古今東西の物語で共通で、
だから強い。

アナ雪でもありのままで、がテーマになったのは、
変身しなくても描けるということだね。
(いい子でいなさい、というのが偽りの私で、
本当のありのままの私がいる、
というのはとくに女の子にあるテーマかもしれない。
だからか、
残念ながらアナ雪のピークは、
ありのままでのシーンなんだよね。
クライマックスは何を争っているんだっけ、
と今思い出そうとしても忘れてしまっている)


主人公はどう変身するのか。
どういう姿を手に入れるのか。
どちらが本当の姿なのか。
そうした人格の二重性、社会的人格と本当の人格の二重性などが、
変身ものがはらむテーマ性だ。

これを無視してただ変身ヒーローを描いても、
なんの意味もないと僕は思う。
posted by おおおかとしひこ at 00:08| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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