2021年03月09日

名台詞はあなたの中からは生まれない

自分の中の哲学や斬新な考え方を言って暮らすのは、
宗教家や詐欺師である。
物語は、あなたの言葉をキャラクターに代弁させるものではない。

じゃあ、数々の名台詞はどこからやってくるのだろう。
「我が生涯に、一片の悔いなし」(ラオウ)で考えよう。


まさかあなた自身が、
「我が生涯に一片の悔いなし」
と思い、それを実践しているとは思えない。

そんなカッコいいやつはいないだろう。

つまり、
殆どの人は、なんらかの後悔を残して死んでゆく。

あれをやっとけばよかった、
あの時なんであんなことを言ったんだろう、
もっと早くにあれをしとけばよかった、
などを抱えながら死んでいくわけだ。
あるいは、
ある種の後悔はあるのだが、
「まああれはいいや」と諦めを一つずつ数えていく。
手放しと未練を抱えながら。

だからこそだ。

「満足して死んでいく」という人生に、憧れがある。


北斗の拳のラオウは、
稀有な、満足して死んだ人間の一人である。

釈迦的にいえば、解脱したのである。

その辞世の台詞「我が生涯に一片の悔いなし」は、
作者自身の台詞ではない。

作者(と多くの人)の、
「憧れの台詞」である。

俺はこうして死にたい、
人間はこうして死ぬべきだ、
これこそがほんとうの人生だ、
ということをラオウの死で描いたわけだ。

だから作者自身の中にある哲学ではなく、
作者の外からやってきた哲学である。

あなたの中のちっぽけな思想からは、
決して生まれ得ない台詞だろう。


すなわち、ラオウの台詞は他人の台詞である。

だから、作者自身の台詞ではない。
他人が言う台詞なのだから、
作者自身の哲学の外から持ってこれる。


憧れの哲学、
あり得ないが理想としての哲学、
唾棄すべき糞みたいな恐ろしい考え方、
禁忌だけど魅力に溢れる危険な哲学、
自分では考えたこともないが、世の中にそう考える人がいるのも分かるもの、
あまりにも違和感があり過ぎて、自分の常識をひっくり返されるもの、

などは、あなたの内側からは出てこない。

それは、あくまで「他人の哲学」だから、
出すことができるのだ。


いや、ひょっとしたら、
あなたの中に種として眠っていたものが、
「他人だから言える」という仮面を被って、
出てきたものであるかもしれない。

(悪役やヒロインが言う台詞は、
あなたが悪だったらやりたいこと、
あなたが女だったらやりたいこと、
への投影を持っていることがある)

しかしそれは他人なのだから、
あなたの考え方ではなく、
そのキャラクターの考え方なのだ、
と言い訳を用意すれば、
いかような考え方だって創作は出来るのだ。


つまり、
創作のキャラクターの思想は、
あなた自身の思想よりも格段に広い。


名台詞はこうして生まれる。

「そのキャラクターが、その文脈でしか言えないこと」は、
あなたの日常生活やあなたの思想の中には存在しない。

他人が、非日常性が、名台詞、
すなわち、「新しい考え方をそこでうまく言ったもの」
を生む。

非日常で、常識の外だから面白いのだ。
「日常にすぐ使えて、役に立つもの」ではないのだ。
それはTwitterや宗教でやりなさい。


物語の名台詞とは、
「私自身には存在しないが、心に残るもの」
であるべきだ。

自分の中にない、他人の斬新な考え方こそが、
我々を魅了する。

「我が生涯に一片の悔いなし」を実践できないからこそ、
我々はラオウの死に憧れる。
それが物語の魔力だ。

そしてあなたは、その魔法使いになるのだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:03| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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