自分の中の哲学や斬新な考え方を言って暮らすのは、
宗教家や詐欺師である。
物語は、あなたの言葉をキャラクターに代弁させるものではない。
じゃあ、数々の名台詞はどこからやってくるのだろう。
「我が生涯に、一片の悔いなし」(ラオウ)で考えよう。
まさかあなた自身が、
「我が生涯に一片の悔いなし」
と思い、それを実践しているとは思えない。
そんなカッコいいやつはいないだろう。
つまり、
殆どの人は、なんらかの後悔を残して死んでゆく。
あれをやっとけばよかった、
あの時なんであんなことを言ったんだろう、
もっと早くにあれをしとけばよかった、
などを抱えながら死んでいくわけだ。
あるいは、
ある種の後悔はあるのだが、
「まああれはいいや」と諦めを一つずつ数えていく。
手放しと未練を抱えながら。
だからこそだ。
「満足して死んでいく」という人生に、憧れがある。
北斗の拳のラオウは、
稀有な、満足して死んだ人間の一人である。
釈迦的にいえば、解脱したのである。
その辞世の台詞「我が生涯に一片の悔いなし」は、
作者自身の台詞ではない。
作者(と多くの人)の、
「憧れの台詞」である。
俺はこうして死にたい、
人間はこうして死ぬべきだ、
これこそがほんとうの人生だ、
ということをラオウの死で描いたわけだ。
だから作者自身の中にある哲学ではなく、
作者の外からやってきた哲学である。
あなたの中のちっぽけな思想からは、
決して生まれ得ない台詞だろう。
すなわち、ラオウの台詞は他人の台詞である。
だから、作者自身の台詞ではない。
他人が言う台詞なのだから、
作者自身の哲学の外から持ってこれる。
憧れの哲学、
あり得ないが理想としての哲学、
唾棄すべき糞みたいな恐ろしい考え方、
禁忌だけど魅力に溢れる危険な哲学、
自分では考えたこともないが、世の中にそう考える人がいるのも分かるもの、
あまりにも違和感があり過ぎて、自分の常識をひっくり返されるもの、
などは、あなたの内側からは出てこない。
それは、あくまで「他人の哲学」だから、
出すことができるのだ。
いや、ひょっとしたら、
あなたの中に種として眠っていたものが、
「他人だから言える」という仮面を被って、
出てきたものであるかもしれない。
(悪役やヒロインが言う台詞は、
あなたが悪だったらやりたいこと、
あなたが女だったらやりたいこと、
への投影を持っていることがある)
しかしそれは他人なのだから、
あなたの考え方ではなく、
そのキャラクターの考え方なのだ、
と言い訳を用意すれば、
いかような考え方だって創作は出来るのだ。
つまり、
創作のキャラクターの思想は、
あなた自身の思想よりも格段に広い。
名台詞はこうして生まれる。
「そのキャラクターが、その文脈でしか言えないこと」は、
あなたの日常生活やあなたの思想の中には存在しない。
他人が、非日常性が、名台詞、
すなわち、「新しい考え方をそこでうまく言ったもの」
を生む。
非日常で、常識の外だから面白いのだ。
「日常にすぐ使えて、役に立つもの」ではないのだ。
それはTwitterや宗教でやりなさい。
物語の名台詞とは、
「私自身には存在しないが、心に残るもの」
であるべきだ。
自分の中にない、他人の斬新な考え方こそが、
我々を魅了する。
「我が生涯に一片の悔いなし」を実践できないからこそ、
我々はラオウの死に憧れる。
それが物語の魔力だ。
そしてあなたは、その魔法使いになるのだ。
2021年03月09日
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