2021年03月10日

どういう集団の、どういうストーリーか

個人は個人的存在であるとともに、
社会的存在でもある。
つまり、なんらかの集団に属している。

個人と個人の間にあるストーリーは、
集団と集団のストーリーにすることもできる。


歴史的には個人と個人の恋愛はなく、
一族と一族のものであった。

個人同士の関係性は、集団の関係性に解釈されたのだ。
「あの家と付き合うな」「あの家の血を入れるなんて」
などは、まだ田舎では残っているかな。
在日朝鮮人の問題、部落問題はまだゼロになっていない。
「ロミオとジュリエット」など、
家と恋愛の問題は、古典的な集団と個人を扱った物語である。
(個人と集団をテーマにしてはいない。モチーフにしているだけだ)

現代でも、たとえばライバル会社に勤める同士の人は、
おそらく親友になることはないだろう。
SNSなどで緩くつながることはあっても、
本気で付き合うことはないと思われる。
匿名のツイッターやハンドルネームが許されるメディアでは、
そうしたことを無しに出来る。
集団を降りて、個人としてふるまえるのだ。

僕は人の思想は自由であり、
たとえ偏っていても自由であり、
仕事において偏ったときだけ罰するべきだと考えるが、
世間は集団と個人を同一視しやすく、
森元総理がちょっとぼやいただけで総すかんになる。
集団と個人が分離していない例だ。

聖職者が児童ポルノを所持していてもいいと思うよ。
犯罪行為をしていなければの話だ。
「危険だから」という理由だけで排除するのは、
ただの思想統制で、
集団と個人を同一視する、前近代的な見方だと僕は思う。

日本では世間を騒がせた罪というものが存在する。
法的にそんな罪はないのだが、大体辞任に追い込まれる。
それは、人間は個人であるとともに、集団の一部でもあるからだ。
そんなことを強要する集団と、自由でありたい個人とは、
いつの世も対立矛盾する、
すなわちコンフリクトする要素になる。
つまりは、文学のテーマになるということだ。

個人としてはロリコンだが、
父としては娘の友人とセックスするわけにいかない、
というのはよくあるモチーフだ。
ここでも個人と集団がコンフリクトを起こしている。
逆に、会社員としては失格だが、
人間としてはここで黙ってられない、
という場面も多々あるだろう。

内面の正義に従うのか、
集団としての利益方針に従うのか、
は、いつの世でもテーマやモチーフになりえると思う。

「ベンハー」は、
本来親友であったはずの二人の英雄が、
所属する民族ゆえに対立する羽目になり、
一方が奴隷まで落ち、這い上がる話だ。
だからその決着をつける戦車レースが、
一番の山になる。
個人と集団というモチーフがここで十分に使われるわけだ。
(その後の神との邂逅はいらないよね。
まあ、個人と宗教の信徒、という集団とのテーマと考えればいいのだが)

母ではあるが女ですとか、
夫婦であるが他人とか、
兄弟であるがライバルとか、
親友だが浮気とか、
色々な、個人と集団のネタは、
どこにでも転がっている。

あなたの話が深くならないのは、
個人の話しかしなくて、
集団の話をしていないからかもしれない。
(もっとも、脚本なんて書こうとするやつは、
社会的落伍者ばかりで、
集団のことはあまり知らないやつが多いのだ。
もっと社会生活をしてから人間というものを考察したまえ)


だから逆に問うのである。
「それは、なんの集団の話か?」とね。

集団同士がコンフリクトを起こしているような大規模構造で、
しかも個人同士がコンフリクトを起こしていたり、
個人内でも個人であるべきか集団であるべきか、
という内的なコンフリクトがある。

そういうものが、社会のリアルというものだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:00| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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