個人は個人的存在であるとともに、
社会的存在でもある。
つまり、なんらかの集団に属している。
個人と個人の間にあるストーリーは、
集団と集団のストーリーにすることもできる。
歴史的には個人と個人の恋愛はなく、
一族と一族のものであった。
個人同士の関係性は、集団の関係性に解釈されたのだ。
「あの家と付き合うな」「あの家の血を入れるなんて」
などは、まだ田舎では残っているかな。
在日朝鮮人の問題、部落問題はまだゼロになっていない。
「ロミオとジュリエット」など、
家と恋愛の問題は、古典的な集団と個人を扱った物語である。
(個人と集団をテーマにしてはいない。モチーフにしているだけだ)
現代でも、たとえばライバル会社に勤める同士の人は、
おそらく親友になることはないだろう。
SNSなどで緩くつながることはあっても、
本気で付き合うことはないと思われる。
匿名のツイッターやハンドルネームが許されるメディアでは、
そうしたことを無しに出来る。
集団を降りて、個人としてふるまえるのだ。
僕は人の思想は自由であり、
たとえ偏っていても自由であり、
仕事において偏ったときだけ罰するべきだと考えるが、
世間は集団と個人を同一視しやすく、
森元総理がちょっとぼやいただけで総すかんになる。
集団と個人が分離していない例だ。
聖職者が児童ポルノを所持していてもいいと思うよ。
犯罪行為をしていなければの話だ。
「危険だから」という理由だけで排除するのは、
ただの思想統制で、
集団と個人を同一視する、前近代的な見方だと僕は思う。
日本では世間を騒がせた罪というものが存在する。
法的にそんな罪はないのだが、大体辞任に追い込まれる。
それは、人間は個人であるとともに、集団の一部でもあるからだ。
そんなことを強要する集団と、自由でありたい個人とは、
いつの世も対立矛盾する、
すなわちコンフリクトする要素になる。
つまりは、文学のテーマになるということだ。
個人としてはロリコンだが、
父としては娘の友人とセックスするわけにいかない、
というのはよくあるモチーフだ。
ここでも個人と集団がコンフリクトを起こしている。
逆に、会社員としては失格だが、
人間としてはここで黙ってられない、
という場面も多々あるだろう。
内面の正義に従うのか、
集団としての利益方針に従うのか、
は、いつの世でもテーマやモチーフになりえると思う。
「ベンハー」は、
本来親友であったはずの二人の英雄が、
所属する民族ゆえに対立する羽目になり、
一方が奴隷まで落ち、這い上がる話だ。
だからその決着をつける戦車レースが、
一番の山になる。
個人と集団というモチーフがここで十分に使われるわけだ。
(その後の神との邂逅はいらないよね。
まあ、個人と宗教の信徒、という集団とのテーマと考えればいいのだが)
母ではあるが女ですとか、
夫婦であるが他人とか、
兄弟であるがライバルとか、
親友だが浮気とか、
色々な、個人と集団のネタは、
どこにでも転がっている。
あなたの話が深くならないのは、
個人の話しかしなくて、
集団の話をしていないからかもしれない。
(もっとも、脚本なんて書こうとするやつは、
社会的落伍者ばかりで、
集団のことはあまり知らないやつが多いのだ。
もっと社会生活をしてから人間というものを考察したまえ)
だから逆に問うのである。
「それは、なんの集団の話か?」とね。
集団同士がコンフリクトを起こしているような大規模構造で、
しかも個人同士がコンフリクトを起こしていたり、
個人内でも個人であるべきか集団であるべきか、
という内的なコンフリクトがある。
そういうものが、社会のリアルというものだ。
2021年03月10日
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