二十年前、CMの企画会議は最高に面白かった。
あれが面白い、これは面白くない、
何が面白いのか、ずっと缶詰で考えていた。
面白くなるまで部屋を出れませんというプレッシャーがあり、
あるアイデアが出たら、みんなでそれをブラッシュアップして、さらにそれを面白くした。
その場でコンテを描き、壁に貼り、見比べた。
どれがおもしろくなるか? で議論した。
最近はそうではない気がする。
最近の企画会議は、
パワーバランスを整える場のような気がする。
あそこにこれだけを渡して、
そこにこれだけを分配する、のような。
まるで政治だ。
金の分配ならわからなくもないが、
面白さの分配というか、
ここはあの人の言う事を立てて、
ここはあの意見を反映させて、
ここはあのチェック項目に違反していないか監視して、
などのようなことがとても多い。
「なんでもいいから最高に面白いものをつくる」
という業界が、
「分配を調整する」場になっている。
(オリンピックのような、結局は富の再分配なのね、
という感じ)
だから突出することをしようとしない。
むしろ、突出したことがない人が多くなってきたから、
突出することがどういうことか分らず、
突出することは怖くなる。
昔アメリカで仕事をしたとき、
「会議室で打ち合わせよう」という英語が、
meeting roomでもなく、conference roomでもなく、
negotiating roomだったことに驚いた記憶がある。
そうか、打ち合わせはnegotiateなのかと。
そのときは企画の打ち合わせではなく、実際の制作上、
どういう段取りでやるかとか、これをこの手法でやるとかの打ち合わせだったから、
金との相談も込みでnegotiateだったのはわかる。
しかし企画を考えるときはそうではない。
僕はracing roomの感覚でいた。
ところが最近の企画はnegotiateだなあ、
というのが表題。
誰かの指示を預かってきている人ばかりで、
それを通すことに弁論を尽くす人ばかりだ。
その配分の調整に時間がかかる。
それってなんの意味があるのか、僕にはわからない。
その人を呼べば済むことじゃないか。
「(予算の制限はあれど)最高のものはどうあるべきか?」という議論を、
最近ほとんどしていない。
業界に入ったばかりのころは、
仕事をするのも若者ばかりで、
最高のものをつくろうぜ、
という野心がある人たちばかりだったのかもしれない。
朝まで飲んで、よくそういう野心を語ったものだ。
年を取って付き合う人たちも年を取り、
家族もあるから調整型が増えたのかもしれない。
だけど俺はクリエイターとして、
調整は初期条件に過ぎず、
この会議でもっと面白くしようじゃないかと打ち合わせに臨んでいるつもりなのだが、
打ち合わせの内容は調整内容の伝達と再分配ばかりで、
その場で新しいアイデアを出そうなどという心構えはもうなさそうだ。
かつて朝まで、
これじゃ詰まらない、
こうしてはどうだろう、いやそれはマイナーな面白さに過ぎない、
などと喧嘩しながら、最後は酒を飲みながらやっていた、
煙草の煙にまみれた(僕は煙草をやらないのに、会議のあとは服は煙草の燻製だった)、
あの素晴らしいファイトは、
十年以上やっていない。
面白げな企画を壁に貼り、
どっちが面白いだろうとか、
これはもっとこうしたら面白くなるのでは、とか、
これはいけそうだがいまいちなので、
もっと面白くするには何が必要だろうとか、
思いついたやつが発言して、面白ければヒーローになれる、
そういう企画会議はどこかに行ってしまった。
本来そういうリーダーがいるはずなのだが、
最近のリーダーは各方面の調整役ばかりしていて、
クリエイターではなくネゴシエイターである。
面白さは、ネゴシエーションから生まれるのだろうか?
僕はそうは思わない。
ネゴシエーションとは、
「相手に妥協を強いること」でしかないからだ。
「妥協した結果、良くなること」はない。
創作とは、
「誰にも思いつかなかった面白さに到達すること」にほかならず、
部分部分を妥協して混ぜることではない。
僕は昔ながらの企画会議をずっと突破してきた男だ。
どんなプレッシャーの中でも、
朝までくらいには、面白いことを思いついてきた。
それはクリエイターには大変試練になるから、
「面白いことを思いつくまで帰れません」
となると、逃げる卑怯な偽クリエイターが増えてきた。
そうして、
企画会議の場は、みんなで思いついて面白くしようとするリングの場ではなく、
「持ち帰って修正してきます」の場になり、
企画の火花から逃げる人ばかりになり、
そのうちネゴシエーションの場になった。
そんなんで面白いものが作れるはずがない。
創作は民主主義ではない。
独裁主義である。
「面白さ」という統一されたセンスによって、
一字一句まで練り込まれていないと、
面白くない。
民主主義は継ぎ接ぎしか生まない。
役所仕事のようにだ。
独善的で、その独善こそが個性になるものが、
創作というものだ。
面白さというのは、
独善で人類を先に進めるものである。
最近、CMや邦画が、
人類を先に進めているとは僕にはとても思えない。
調整役のしんがりは疲れた。
面白さの為に朝まで会議室で疲れたい。
勿論一人でやってもいいし、
ピクサーみたいに複数でやってもいいし、
黒澤みたいに合宿状態でやってもいい。
色んな角度から見て、色んな面白さをつくり、
それらが統一された独善のセンスで突出するものをつくりたい。
リーマンショック以降の不景気、
震災の不景気、
そしてコロナでの落ち込みにより、
もはや業界は回復不能に見える。
それでも面白いものはつくれると思う。
面白いものをつくりたい、才能のある人はどこかにいる。
現状のこの業界ではないところで、かもしれないが。
一人で闘っている小説「てんぐ探偵」は、
先日第七章を書き終えた。
しばらく寝かせて、リライトして、そのうちお披露目としたい。
一人で書くことは、
要するに朝まで会議を様々な人格でやることだ。
体力と独善と、いろんな角度の見方が必要だ。
一人会議をずっとやり続けるのは体力が必要だね。
みんなでやる企画会議も、体力が必要だけど。
(本気で考えたらすぐ腹が減る)
日本の民主主義の会議のやり方は、
会議に臨む前に結果が決まっていて、
会議は儀式に過ぎない。
僕はそれはつまらなくて、アメリカ式に、
「議論するためにこの場に集まったのだ」という風にしたいがね。
2021年03月15日
この記事へのコメント
コメントを書く