映画は、純粋な芸術でも、純粋な商売でもない。
その中間の商業芸術だ。
芸術とはなにか。
ひとつの美学に貫かれたもので、
今までなかった新しいもので、
これまでなかった、新しい領域へ人類を連れて行くものだ。
(新しい領域は、中間の世界の場合もあれば、
結論の場合もある。後者の方が優れた芸術だ)
一方、商売とは、
売れてるものが売れる。
売れてるものに似てるものが売れる。
便利なもの、優れたものが売れるとは限らない。
売れてるものが売れるという経験則しかない。
「金に魂を売った」というのは、
美学を貫かず、
新しいものも作らず、
人類の進歩にも寄与せず、
売れてるものを真似して、
「馬鹿な大衆」にレベルを落として作ったものをいう。
逆に、「芸術気取りが」とは、
新し過ぎて、あるいは難解すぎて理解されない、
多くの人が楽しめない、
売れないもののことをいう。
どちらかに偏らず、
どちらとも取りに行くことが映画の理想である。
理想の脚本とは、
芸術性があり、おもしろく、
なおかつ売れる要素を備えていることだ。
ところが最近、
脚本の芸術性ではなく、
商業性しかチェックが通っていないものが増えてる気がする。
芸術を理解して、表現することは、
才能と努力が必要だ。
一方、売れる売れないの判断は圧倒的に簡単で、
「売れてるものに似てる」かどうかを見るだけだ。
いまどきAIでも出来るわそんなもん。
つまり、
現在、プロデューサーたちに、
新しい娯楽の方向を考えて、
リスクを賭け、
人類を進歩させることが、
いったいどのようなことか、
考える力もないし、作る力もないし、
判断する力もないということだ。
もちろん、全員ではない。
志あるプロデューサーはたくさんいるだろう。
だが銀行から投資を受けるには、
芸術性と商業性のどちらがより多くの資金提供を受けるか?
と言われたら、後者なのだろう。
こうして、
銀行から投資を引き出すまでで、
プロデューサーは力尽き、
新規性も芸術性も、心にくる何かもない、
何かを真似した邦画が量産されていく。
逆に、
「商業主義に魂は売らん」みたいな、
わからんやつは見るな、
いやそれ誰がこれみて喜ぶのや、
みたいなオナニー作品も作られ続ける。
なぜ、両方やろうとしないのだろう?
僕は、芸術を理解せず、
つまり面白いか面白くないかを見る目がなく、
売れるか売れないかしかわからないプロデューサーが増えたからではないか、
と思う。
最近プロデューサーから、
「面白い」「面白くない」という言葉を聞いたことがないからだ。
鬼滅が「受けてる」「売れてる」という話は聞くが、
「面白い」「面白くない」という話は聞かない。
「わからない」はたまに聞く。
それはただの思考停止だ。
じゃあ、どうしていいか分からないじゃないか。
わからない、売れてるものを真似してるものを、
わかってるふりして通すのがプロデューサーの仕事だろうか?
僕は、違うと思う。
プロデューサーは、日本語表記では製作者という。
お金を集めて、作る人を集めて、
最終的に作られたものに全責任を負う人のことだ。
脚本家と監督はとくに内容だけに仕事をするが、
製作者は資金集めからが仕事である。
最近製作者の仕事が、
これだけの理由でこれだけの資金を持ってきたから、
その引き出した理由(売れてる何かに似ている)に、
見合うものをつくってくれ、
で終わっている気がする。
それが本当に面白いか?
それを突き詰めずにロールアウトしてる邦画が、
多くないか?
2021年03月16日
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