2021年03月16日

商業芸術

映画は、純粋な芸術でも、純粋な商売でもない。
その中間の商業芸術だ。


芸術とはなにか。
ひとつの美学に貫かれたもので、
今までなかった新しいもので、
これまでなかった、新しい領域へ人類を連れて行くものだ。
(新しい領域は、中間の世界の場合もあれば、
結論の場合もある。後者の方が優れた芸術だ)

一方、商売とは、
売れてるものが売れる。
売れてるものに似てるものが売れる。
便利なもの、優れたものが売れるとは限らない。
売れてるものが売れるという経験則しかない。

「金に魂を売った」というのは、
美学を貫かず、
新しいものも作らず、
人類の進歩にも寄与せず、
売れてるものを真似して、
「馬鹿な大衆」にレベルを落として作ったものをいう。

逆に、「芸術気取りが」とは、
新し過ぎて、あるいは難解すぎて理解されない、
多くの人が楽しめない、
売れないもののことをいう。

どちらかに偏らず、
どちらとも取りに行くことが映画の理想である。


理想の脚本とは、
芸術性があり、おもしろく、
なおかつ売れる要素を備えていることだ。

ところが最近、
脚本の芸術性ではなく、
商業性しかチェックが通っていないものが増えてる気がする。


芸術を理解して、表現することは、
才能と努力が必要だ。

一方、売れる売れないの判断は圧倒的に簡単で、
「売れてるものに似てる」かどうかを見るだけだ。
いまどきAIでも出来るわそんなもん。


つまり、
現在、プロデューサーたちに、
新しい娯楽の方向を考えて、
リスクを賭け、
人類を進歩させることが、
いったいどのようなことか、
考える力もないし、作る力もないし、
判断する力もないということだ。

もちろん、全員ではない。
志あるプロデューサーはたくさんいるだろう。

だが銀行から投資を受けるには、
芸術性と商業性のどちらがより多くの資金提供を受けるか?
と言われたら、後者なのだろう。

こうして、
銀行から投資を引き出すまでで、
プロデューサーは力尽き、
新規性も芸術性も、心にくる何かもない、
何かを真似した邦画が量産されていく。

逆に、
「商業主義に魂は売らん」みたいな、
わからんやつは見るな、
いやそれ誰がこれみて喜ぶのや、
みたいなオナニー作品も作られ続ける。


なぜ、両方やろうとしないのだろう?

僕は、芸術を理解せず、
つまり面白いか面白くないかを見る目がなく、
売れるか売れないかしかわからないプロデューサーが増えたからではないか、
と思う。

最近プロデューサーから、
「面白い」「面白くない」という言葉を聞いたことがないからだ。

鬼滅が「受けてる」「売れてる」という話は聞くが、
「面白い」「面白くない」という話は聞かない。
「わからない」はたまに聞く。
それはただの思考停止だ。
じゃあ、どうしていいか分からないじゃないか。

わからない、売れてるものを真似してるものを、
わかってるふりして通すのがプロデューサーの仕事だろうか?

僕は、違うと思う。


プロデューサーは、日本語表記では製作者という。
お金を集めて、作る人を集めて、
最終的に作られたものに全責任を負う人のことだ。

脚本家と監督はとくに内容だけに仕事をするが、
製作者は資金集めからが仕事である。

最近製作者の仕事が、
これだけの理由でこれだけの資金を持ってきたから、
その引き出した理由(売れてる何かに似ている)に、
見合うものをつくってくれ、
で終わっている気がする。

それが本当に面白いか?
それを突き詰めずにロールアウトしてる邦画が、
多くないか?
posted by おおおかとしひこ at 00:21| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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