2021年03月18日

突き抜けること

アマチュアのうちは、
わいわいやってることは楽しい。
「それを作ることそのものが面白い」
という幸福な体験は、原体験としてぜひ積んでおくこと。

しかしプロはそのレベルでは務まらない。


なぜかというと、
製作者本人が面白いと思ってることは、
みんながそうとは限らないからだ。

しかしその情熱そのものが人を動かすこともある。
こんなに好きなんだという情念そのものは、
創作につきまとうものだからだ。

たとえば島本和彦はその過剰な情念だけで生きる作家である。
アオイホノオを読めば、
いかに創作クラブが楽しいか、
その神を宿すディテールの追求が楽しいか、
よく伝わってくる。

しかしそれは所詮アマチュアの話に過ぎない。



プロになるということは、
どんな文脈の人たちでも説得し切れるのか、
どんな人をも巻き込めるのか、
つまり、マイナーでなくメジャーかが問われることだ。

新しさがあり、
今までなかったタイプの娯楽になる必要がある。
つまり、オリジナリティ、
依存したものではなく自立したものであることが問われる。

そのメッセージ性が、
時代を捉える事が必要とされる。
説教をするのではなく、
まだ言葉にできなかったものを言葉や映像にしなければならない。
つまりそれは、芸術である事が求められる。


こうしたシビアな要求に、
創作クラブのレベルでは耐えられない。
批判に傷つき、心折れ、
それが怖くてなあなあになっていて、
どこかしら褒め合うところを探す学生の創作クラブを、
僕はたくさん見てきた。

それが嫌でプロの東京に出てきたというのに、
実はプロの世界でもその甘えがたくさんあることを知る。


僕はプロというのは冬の日本海の波打ち際に立ち、
どんな海風や荒波にも負けない強靭な作品性が必要だと思うのだが、
最近のプロはアマチュアクラブのようなところが増えてきたような気がする。

「それのどこがおもろいんや?」にびびるやつは、
僕はプロの資格はないと思う。
しかるに、最近それにびびるやつばっかりだ。
「え、○○○がおもろいやんけ」と何故返せないのだ。
小さくまとまったものなどプロのレベルではない。
プロの作品とは、誰にもできないスケール感と、
誰にもできない深みをもっているべきだろう。

それには、客観性との戦いである。

誰がどう見ても「うむ」というものになっているのか、
とてもシビアに鏡を見ていくのだ。
自分ではなく他人の作品であると思って、
批判し倒すことだ。
それにすべて答えられたときが、リリースの時期である。

アマチュア創作クラブは、
つくるのがたのしいだけでやっているから、
こうした荒波には耐えられない。
そんなことをあえてやってるクラブはほとんど聞かない。


で。


ほんとに楽しいなら、
突き抜けるほどの楽しさがプロには必要なのだ。
島本和彦くらいのね。
どんな理屈を並べたとしても、
芯にあるのは、これを作っててほんとに良かったという、
アマチュアのレベルを凌駕する、
プロレベルの楽しさである。

そこまで好きになれない作品なんて、
プロの作品でもなんでもない。

自分の強力な批判を全て跳ね返して、
それでもなおエネルギーを放ってはじめてプロたる出来だと思う。

どうも僕は厳しいらしい。
そうかな。世間はもっと厳しいぞ。
免疫ぐらいつけとけよ。


ぬるま湯の世界は、高校生までだろう。
大学生以降は、厳しい客観性との戦いを常にするべきだ。
そこから突き抜けるだけのパワーがある作品が、
プロとしてやっていけるレベルだ。

どんどん枯葉剤は撒け。
くだらねえ雑草をはびこらせるな。
それでもなお生えてくるだけのパワーがほんものである。
posted by おおおかとしひこ at 00:31| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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