発達心理学での話。
興味のあるもの(たとえばリンゴ)を、
そこにおいて、何かのついたてで隠す。
リンゴはなくなってしまったと考えるか、
ついたてをどければそこに存在すると考えるか。
人間の子供は、生後10ヶ月程度で、
誰からも教えられることなく、
「リンゴは無くなってしまったのではなく、
ついたてをどければそこにある」ことを理解する。
これを対象の永続性の認知とよぶ。
これは学習ではなく、
生得的なもの、つまり、脳の機能に最初から備わった感覚である。
対象の永続性は、
「世界はこのようにできているはずだ」
という直感のもとになる感覚だと思う。
もしこの地球が、
「見えなくなったら永久に失われる」世界だったら、
対象の永続性を認知する生物は滅び、
「なくなったらなくなる」と思うタイプの生物が進化したはずだ。
(こういうSFあるのかな。
まあ俺は部屋の中でよくものをなくすが)
この感覚は、ある程度文化で補正を受ける。
日本人は火事や台風があるから、
家はすぐなくなるもの、みたいな感覚があるだろう。
地震のない、ヨーロッパの石造りの家では、
家が対象の永続性を獲得しているが、
日本では物理的家屋は、対象の永続性を獲得していないだろうね。
人は、他人の死を理解できない。
とくに親しい人の死ならなおさらである。
その感覚は、この対象の永続性に反するからではないか、
と僕は考えた。
つまり死の捉えきれなさは、
脳のネットワークに付与された自動的な感覚が破れることによる、
高次理性ではない、電気信号的な感覚ではないかと。
親しい人が死んだ時、
ついたての向こうにいるはずのリンゴが、
どこにもなくなってしまうような、
不安やストレスや理解できなさを、
脳の電気が感じるのだろう。
仲間の葬式をする動物が知られている。
ゾウやカラスなどだ。
それは文化的伝承ではなく、
本能的、電気信号的なもののなせるわざである。
彼らの脳内でも、
対象の永続性の破れが起こっていて、
それを埋めるための行動が必要で、
それが葬式なのかもしれないと思った。
どの脳の部位に、
その対象の永続性を感じる神経回路があるのかは分かっていないが、
ゾウやカラスにも、似た部位があることは想像に難くない。
30年前の今日、
僕の親友が死んだ。
俺は大学生であいつは高卒で働いてて、
会社に向かう途中の信号で、トラックに巻き込まれた。
今でもあいつがいるような気がするのは、
僕の中の対象の永続性の感覚なのだろう。
リンゴはそこにないのに、
まだリンゴはあるような気がする。
それがないことは、学習ではなく、最初からプログラムされた喪失感である。
「人が死んだら泣くものだ。
ヨシオが父が死んで泣かないのはへんだ」
と、映画プロデューサーに言われて僕は納得しなかった。
人が死んで泣くとはかぎらんだろ。
悲しみ方は色々あるんだ。
なんという見識の狭さよ。
人の死は人生でも物語でも、
大きな節目になる。
悲しみを描きたいのか、喪失感を描きたいのか、
対象の永続性の破れの違和感を描きたいのか。
あるいは、それゆえに次にどんな行動をするのかが、
そのあとのテーマと関係してくる。
僕はあいつが死んだ後8ミリ映画を撮った。
そのターニングポイントから、
人生は今まで連続している。
2021年03月16日
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