「四千年前の聖剣が何故木刀」
「何故学ランで聖剣戦争をたたかうのか」
「死牙馬が学ランのまま眠っていた理由(ついでに魔女は高校に行ってるのか)」
などなど、ぶっ飛びトンデモ世界で有名な風魔ですが、
よく考えてみたら、
もっとおかしなルーツがリンかけにあるのを思い出した。
「拳二つで世界を牛耳ろうという謎の一族」
影道一族と阿修羅一族だ。
僕がリアルタイムで見た一番古いリンかけは、
阿修羅一族編のどこかの門の巻頭カラーだったように思う。
何故か山の中の岩場のへんな門の前で、
何故か野良ボクシング(喧嘩ではなく拳二つで戦うという意味で)
で戦う漫画で、
普通のボクシングもの、
たとえばあしたのジョーやがんばれ元気とは一線を画す、
異様な第一印象だった記憶がある。
(あとから考えればその一族編が、全体から見るとおかしいんだが。
影道一族のときはまだ竜児が常識とは違う異様な世界に行った感覚があったが、
阿修羅一族のときはあああれね、みたいだった感覚)
たとえるなら忍者ものが一番近かった。
「人知れず山の中の謎の場所で戦う人たちがいる」
という感覚がだ。
その感覚と風魔は地続きな気がする。
伝統的な忍者観にのっとったものではなく、
「ああ、あの○○一族の感じの、別の一族の話ね」
のように思えた記憶がある。
80年代は、
「まだ我々の知らないことが世の中にはたくさんあって、
それを取材によっていくらでも知ることができる。
取材がいかないところもあって、
マスコミが立ち入ってない場所の方が多い」
ような感覚があったと思う。
Googleマップもネットもなかったし、
「世界は全て可視化されて同時に繋がっている」
という感覚はなかったように思う。
「世界でわかっているところはわずかで、繋がるにはマスコミや本しかない」
みたいな感覚だったと思う。
だから、
「人知れず山の中で、人知れず戦う一族がいる」
ことには納得性(むしろ期待感)があった。
今なら
「そんなのいたらTwitterにさらされとるやろ」
「マサイですらiPhoneを持ってる時代に、
ネットに載ってないのはおかしい」
などのような感覚で、
「人知れず山の中で」の世界を信じられないと思う。
40年近くかけて、
私たちの感覚から「人知れない山の世界」は失われたと言っても良い。
(限界集落や謎の集落はあるかもしれないが、
たいてい宗教絡みだと現実の我々は知ってしまっている)
だから、
今の感覚から見ると、
「聖剣が木刀ってww」「学ランで何故忍者ww」
になってしまうんじゃないかなあ。
阿修羅一族を初めて見た時は小学生だったから、
「すげえ、こんな人たちがいるんだ」
と素直にワクワクしたものね。
(民明書房もしばらくは信じてたよ)
ドラマ版をつくったときは、
まだTwitterはなかったけど、Googleマップはあった。
「風魔の里がほんとうにあるなら、
Googleマップで見つけられてしまうのでは」
という疑問を僕は思って色々考えた。
出した結論は、
「北条一族がGoogleに金を出して、
その近辺は荒い画像のままになっている」
という裏設定。
軍事機密のところはモザイクになってたりするから、
それをもっと巧妙にバレないように隠す手段を設定してみたのだ。
当時はGoogleカーはなかったし、3Dでもなかったから出来たが、
今ならGoogleカーの行ってないところはないから、
難しくなってしまうがね。
白霊山をGoogleマップで見たら、
頂上に刺さっている白朧剣が見えているはず。(その脇のコスモスもか)
なんなら3Dでグルグル回転できてしまう。
そんな所誰も見ないよ、だとしても、
Twitterでバズったり、
登山家YouTuberが映え写真を撮りに行ってしまうはずだ。
つまり私たちは、
「私たちの知らないところの方が多い」
「人知れず闘う人たちがいる」
という感覚を、40年かけて失ってしまった。
(それは逆に、「可視化されないものは信じられない」
という想像力の欠如をも生んだ)
聖剣戦争をやるとしたら、
その辺の感覚をどうチューニングするかは決めていない。
現実的には「人知れず」となるんだろうけど、
自分の中で納得できないと思うんだよね。
武蔵や壬生が渋谷の交差点に立ってもおかしくないような
(いやおかしかったんだけど笑)、
現実と繋がった感覚にはしたいんだよな。
阿修羅一族のときは同時代的だったが、
今やその感覚は時代と異なっている。
アオイホノオを見て、
あの時の時代の感覚を少し思い出して、
今のネット的な感覚との違いを痛感している。
今夜叉編を作るとしたら、
あの名ドラマは嘘くさすぎて受け入れられず、
作れないかも知れない。
ギリギリあの時期だから、ネタとして受け入れられて、
やれたのかもなあ。
こんなことを考えてるのは世界で俺一人なのだろうか。
阿修羅一族は日本に残る108の忍びの中のひとつの一族である、
と言えると思うんだよね。80年代バースの中では。
なので余裕があれば阿修羅一族を聖剣戦争編に出したいなあ、
なんて思ってたくらいなのさ。
(影道だと総帥は?って気になるから阿修羅一族だけでいいかな)
完全にファンタジーなら、
人知れず山の中で闘うことには別に問題はない。
しかし「現代もの」という感覚でやるときは難しい。
時代劇としてしまえば成立するけど、
昭和時代劇というジャンルになってしまうのだろうか?
木刀持った長ランの不良ももういないしなあ。
彼らは何を食ってどこに住んでいるのか?
現金収入はどうやって得ているのか?
なぜ若者は一族をやめて都会に出ていかないのか?
田舎の家を継ぐ若者すらいないというのに。
学ランはどこの服屋で買うのか?
洗濯はするのか?
彼らはネット世界に出没してるのか?
他の一族と交流してるのか?
里にある建物はどこの工務店が作っているのか?
そのメンテナンスは?
車でそこに行けるルートはあるのか?
ないならなぜないのか?
国や自治体は彼らの存在を把握してるのか?
戸籍や選挙権について、税金や電気料金、電波基地局などについて。
彼らの里にコロナはいったのか?
マスクやソーシャルディスタンス対応について、
仕事はリモートでやるのか?
阿修羅一族についてそのような設定がうまくできたら、
飛騨一族や鬼面党についても同様にバリエーション設定できそうなんだよな。
もしこれらの考察をきちんとやってる二次創作があったら、
参考にしてみたい。
80年代バースでは、
「人知れず山の中で闘う」にリアリティがあったが、
今のリアリティではこれらに答えられないとだめだと思う。
つくづく、創作物に不利な時代だ。
「トラック野郎一番星」くらいの大雑把さでやりたいのになあ。
2021年03月17日
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