qwertyを変更しない理由のひとつに、
ショートカットのキーバインドの問題がある。
デファクトスタンダードを利用したアプリが増えれば増えるほど、
デファクトスタンダードを変えづらくなるわけだ。
たとえばemacsキーバインドは、
A横Ctrl前提で、qwertyの位置関係を最大限利用したものだ。
Vimとかもそうだろう。
我々はエディタだけを使うわけではなく、
別のアプリも同時に使う。
僕は仕事でAdobe系を常用する。
Adobeのショートカットは、
単キー(スペースとかUとか)に当てられてるものが多く、
CtrlとかShiftとかも使う、整理されていない体系を持つ。
殆どのアプリで使えるCtrl+ZXCVは、
qwertyの左下を利用しているだけだ。
qwertyローマ字は、
英語と日本語とショートカットの三面を、
同じ配列を使おうという縛りなのだ。
デファクトスタンダードから脱出できない力は、
三方向から縛っているわけである。
ちょっとした摂動をしても引力で戻される。
この阿呆な引力圏から脱出するには、
第一宇宙速度に達しないといけない。
僕は、以下のような三面を使うことにした。
英語はqwerty(ほぼ使わない)、
日本語は薙刀式、
ショートカットは、使わないものはqwertyに準じる、
使うものは薙刀式の編集モードに厳選して動線を練り直す
のような構成だ。
また、Adobe系でよく使う、
PremiereとAfterEffectsのショートカットは、
左手マクロキーボードをつくり、
PAE配列として独自配列をつくった。
動線がなってないショートカット群を、
動線を練り直した合理的な配置にした。
Blenderのよく使うものはMiniAxeの左手部にある。
つまりよく使うアプリは左手マクロの範囲にして、
物理キーボードを変える考え方。
中心にあるアイデアは、
「よく使うものはそれぞれで練り直して最適化して独立、
使わないものは都度qwerty」
である。
人間、そうそう沢山のものをマスターしていない。
ショートカットを使いまくれる作業なんて、
片手で数えられる程度だろうと踏んだ。
だとしたらそれを徹底的に合理化した方がいいんじゃないかと。
僕の場合、
日本語テキスト入力7:
Adobe2:
Blender1
くらいの分量だから、
このみっつを抑えとけばあとは全部qwertyでいいと割り切ったわけだ。
デファクトスタンダードの引力とはつまり、
「ぜんぶ同じ配列で共用できないか」という、
スケベ心なのだ。
「どんなものもナイフ一本でこなす」
イメージはカッコいいけれど、
プロはそれぞれに最適化された専門の道具を使うよな。
人殺しには日本刀、木を切るにはチェーンソー、
切り絵にはデザインナイフを持ってくればいいだけで、
その用途を貧弱なナイフ一本で渡ろうとするのが間違いだ。
帯に短し襷に長し。
帯と襷を持ってこい。
デファクトスタンダードの引力はもう一つある。
「孤独に耐えられないこと」。
みんながやってることをやることで安心する心理だ。
プロは「私はほかのみんなとは違う」からスタートする。
その違う能力で食っていく。
なのにみんなと同じで安心するなんて変だよな。
孤独に耐えられず、
自力でアップデートできず、
スケベ心があるやつが、
デファクトスタンダードの引力圏に囚われているのだ。
qwertyを「どこでも使えるから」という理由で勧めるのは、
半分はあってるが半分は間違いだ。
「どこでも使えるqwertyは普通に使えて、
あなたの専門のものはもっといい道具を使い、
それに習熟しなさい」
がただしいと僕は思う。
で、「物語を書く」ためのベストの道具がなかったから、
僕は薙刀式と自作キーボードをつくっただけのこと。
(自作エディタや自作IMEを作れるなら作ると思う)
「配列を変える道具」の存在がなかったら、
今でも僕は糞qwertyと呪いながら、
頭から大量にアイデアが蒸発しながら文章を書いていただろう。
DvorakJ、QMK、AutoHotKeyに感謝しかない。
そして薙刀式の他プラットフォームへの移植者にも感謝しかない。
もしこれらが使えなくなったら、
また配列を変える別の道具の上で、
別の配列を作ればいいだけだと僕は考えている。
配列を変えることは、
「私はこうである」を決めることだ。
デファクトの引力圏から抜け出る第一宇宙速度は、
プロとしてのアイデンティティ、
つまり「私は誰か」を決めることに他ならないと僕は思う。
それが曖昧ならば、
配列に手を出しても、結局引力に囚われて元に戻るのではないか。
「私は流しのエンジニアである。
どこでどんなPCを客先で使わざるを得ないか分からぬ。
だからデファクトスタンダードしか使わない」
というアイデンティティもあるよね。
そういうピアニストもいて、
「そこのコンサートホールのピアノで弾き、
ピアノを持ち歩かない」人もいれば、
「自分のピアノを空輸する」世界的ピアニストもいるそうだ。
だいじなことはデファクトかどうかではなく、
「私は誰か」が決まっていることだと思う。
2021年03月19日
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