他人の目標や夢想としての夢を聞いてみると、
たいてい非現実的である。
「こうだったらいいのにな」という妄想だからだ。
もちろん、あなた自身のドリームもそう思われている。
それがご都合主義の正体である。
「こうだったらいいのにな」がご都合主義だ。
その結果に至るための必要条件、
こうだったから必然的にこうなったのだ、
という十分条件が考えられていない。
「ある日突然アイドルが家に尋ねてきたらいいのに」
というドリームには、フィジビリティがないのだ。
もちろん、フィジビリティがないのがドリームなのである。
実現可能性、その実現のためのロードマップがあるならば、
それはドリームではなく計画である。
物語はドリームだろうか、計画だろうか。
ドリームだったら、
ただの寒い夢である。
夢としての最終結果を語ることは可能だが、
そこに至る過程が描けないなら、
絵に描いた餅である。
そうではなく、その最終結果を得るのに、
妥当なルートを辿り、
こういうことならば実現できるぞ、
という実際の成功ルートを描かなくてはならない。
それにリアリティがないなら、ドリームに過ぎない。
しかし、
実現可能性が高く、
リアリティが高いものは、
誰でも実現可能になってしまい、
絵に描いたものではなく、食べられる餅になるが、
あまり夢がない。
つまり、詰まらない。
絵に描いた餅でも詰まらないし、
食べられる餅でも詰まらないのだ。
実現不可能性も詰まらないし、
実現が可能でも詰まらないのだ。
じゃあどうすればいいのだろう。
実現の計画の中に、ひとつだけ嘘を混ぜることである。
ある仮定を認めると、すべてがうまく行くようなものにするのだ。
物語の中で、嘘はひとつまでついてよい。
そのひとつを、
実現可能実行計画の中に入れると、うまくいく。
ただし、その嘘の何かがその世界ではほんとうにあるのだから、
それがあったときに起こることは、
その世界でほんとうに全部起こるべきだ。
仮に主人公にブラックホールを作る力があるならば、
作中でブラックホールを起こしたときに、
重力のゆがみで一般相対論的効果が起こらなくてはならない。
一般相対論効果のないブラックホールを作る力という嘘にしても良い。
その場合、それがもしリアルにあるとしたら起こることが起こらないならば、
嘘のレベルとして低い。
つまり単なるドリームになってしまう。
他人のドリームは寒い。
何故なら、その嘘が成立したとして、色々起こることが抜けているからだ。
アイドルが家に来たら、マネージャーからの連絡や、仕事が追いかけてくるだろう。
マスコミ対策をどうするか、
オープンにするのか隠すのか、
友人にはどういうべきか、一切紹介しないのか、
じゃあ彼女は社会的に死ぬのか、
といった付帯する問題が沢山ある。
それらのことを一切抜いて、
「ドリームだから良いんだよ」だとドリーム止まりで、
それらのことをきちんと描きながら、
ものごとの解決まで描けば、
物語になる。
現実ではアイドルが家にやってくることはないので、
リアリティではこの物語は存在しない。
だがドリームがあったとしてどういう物語をつくれるのか、
について詰めていったものが「ノッティングヒルの恋人」だ。
主題歌のすばらしさに助けられているが、
それでも甘いロマコメとして出来がよい。
「なぜ彼女が主人公に恋するか」がやや甘いところがあるが、
それ以外はパーフェクトな出来だ。
物語とは、
現実性が薄いが夢のある、
寒いドリームをひとつだけチョイスして、
その世界のリアリティを徹底的に構築することに他ならない。
その夢が実現する世界に、
全ての住人が参加していなければならない。
それらの責任を取らない、
ただのドリームはただの夢想である。
自分の中では強力な力をもっていても、
他人に話したり、自分の外へ出すと、
急に色あせて寒く見える。
(話すことは、離すことである)
他人のドリームが寒いのと同様に、
あなたのドリームは寒い。
それを自覚することだ。
じゃあ、何故物語として面白くなるのか?
それが成立する世界を、
リアリティをもって構築しているからだ。
それを、創作という。
あり得たことは過去の事例に過ぎない。
あり得ないことはただのドリーム。
あり得たいことを、あり得るようにつくり、
破綻なくすることが創作だ。
2021年03月26日
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