と、極論してみようか。
女さんのお気持ち共感して話がまとまらずおしまいになるのは、
支離滅裂だからほっておくとして、
何かものを書くということは、
煎じ詰めれば結論をひとつ用意するということである。
それが凡庸な結論ならたいしたことはないし、
それが新しく説得力があり、
我々の目を開くようなものであれば、
それは大した結論であるというだけのことだ。
だから、
まず用意する結論が平凡か非凡かを判定しなければならない。
どんなにツカミや間の展開が斬新で面白くとも、
結論が凡庸ならば、
「期待したのにたいしたことなかった」
「羊頭狗肉」
と持ち上げたものを落とされる。
要は結論な訳だ。
で、
ものを書くということは、
つまりはこの結論が魅力的で、
面白く、
世界を変えることをするべきなのだ。
これが出来てないのは物書きではない。
ただのおしゃべりクソ野郎にすぎない。
何かしらの意義のある結論を用意できていないのに、
ものを書くべきではないし、
それに付き合わせるべきではない。
さて、
十分意義のある、
あるいは、多少なりとも役に立つ、
なんらかの結論が用意できたとしよう。
じゃあ簡単である。
その結論をまず言って、
その結論になる前提を語り、
その前提下では、
その結論が成立することを証明すれば良い。
そこまでが長く退屈するなら、
適度にはしょったり、
適度に脱線したり、
適度に強調を入れてコントラストを強めて印象をつくったりして、
つまりは起伏をつくって、
結論へ辿り着けば良い。
「話をするのがうまい」ということは、
まず結論が面白く、
議論の前提がわかりやすく、しかも親しみやすい題材で、
論の展開が見事で、
あり得る反論に対しても先につぶせて、
途中退屈することなく、
腹に落ちるように結論に落として、
そしてその結論がそもそも面白く意義があるので、
たいへん満足するようになっていることだと、
僕は考える。
物語は、物書きの部分集合である。
ある世界に事件が起きて、
主人公がそれを解決する、
というフォーマットを持っている。
これも物書きの一部であるから、
結論がまず提示され(明示ではなく暗示のことが多い)、
前提が親しみやすく、
展開が退屈せず、
結論へ腹落ちすることが求められるわけだ。
つまり物語は、
事件とその解決(や感情移入など)と、
結論に至るための物書きの、
ふたつの要素が重なり合っている。
もしそもそも物書きの能力がないのなら、
こうしたブログなどを書いて練習すると良い。
際立って面白い結論や、
新しい考え方や、
誰もが気づいていない発見などを、
結論としてもってきて、
そこへ至る前提からはじめて、
腹落ちするまでを書く訓練をするべきだ。
そしてそれと同じことを、
「物語形式」でも出来るようにするのである。
物語形式はブログや普通の物書きと違い、
結論を明示せず、暗示で表現するジャンルである。
それさえ分かっていれば、
「この話のテーマはこれこれなのだ」と演説することなく、
物語形式で物書きをすることが出来るはずだ。
もちろん、簡単なことではない。
しかし構造そのものはとてもシンプルだ。
そもそも面白い結論から始めているか?
いないなら、あなたの物語は最終的に面白くない可能性が高い。
そもそも面白い結論がないなら、
ものを書くだけ無駄だ。
2021年03月27日
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