2021年03月27日

ものを書くということは、結論を書くことである

と、極論してみようか。


女さんのお気持ち共感して話がまとまらずおしまいになるのは、
支離滅裂だからほっておくとして、
何かものを書くということは、
煎じ詰めれば結論をひとつ用意するということである。

それが凡庸な結論ならたいしたことはないし、
それが新しく説得力があり、
我々の目を開くようなものであれば、
それは大した結論であるというだけのことだ。

だから、
まず用意する結論が平凡か非凡かを判定しなければならない。

どんなにツカミや間の展開が斬新で面白くとも、
結論が凡庸ならば、
「期待したのにたいしたことなかった」
「羊頭狗肉」
と持ち上げたものを落とされる。
要は結論な訳だ。


で、
ものを書くということは、
つまりはこの結論が魅力的で、
面白く、
世界を変えることをするべきなのだ。

これが出来てないのは物書きではない。
ただのおしゃべりクソ野郎にすぎない。

何かしらの意義のある結論を用意できていないのに、
ものを書くべきではないし、
それに付き合わせるべきではない。


さて、
十分意義のある、
あるいは、多少なりとも役に立つ、
なんらかの結論が用意できたとしよう。

じゃあ簡単である。
その結論をまず言って、
その結論になる前提を語り、
その前提下では、
その結論が成立することを証明すれば良い。

そこまでが長く退屈するなら、
適度にはしょったり、
適度に脱線したり、
適度に強調を入れてコントラストを強めて印象をつくったりして、
つまりは起伏をつくって、
結論へ辿り着けば良い。


「話をするのがうまい」ということは、
まず結論が面白く、
議論の前提がわかりやすく、しかも親しみやすい題材で、
論の展開が見事で、
あり得る反論に対しても先につぶせて、
途中退屈することなく、
腹に落ちるように結論に落として、
そしてその結論がそもそも面白く意義があるので、
たいへん満足するようになっていることだと、
僕は考える。


物語は、物書きの部分集合である。

ある世界に事件が起きて、
主人公がそれを解決する、
というフォーマットを持っている。

これも物書きの一部であるから、
結論がまず提示され(明示ではなく暗示のことが多い)、
前提が親しみやすく、
展開が退屈せず、
結論へ腹落ちすることが求められるわけだ。



つまり物語は、
事件とその解決(や感情移入など)と、
結論に至るための物書きの、
ふたつの要素が重なり合っている。

もしそもそも物書きの能力がないのなら、
こうしたブログなどを書いて練習すると良い。

際立って面白い結論や、
新しい考え方や、
誰もが気づいていない発見などを、
結論としてもってきて、
そこへ至る前提からはじめて、
腹落ちするまでを書く訓練をするべきだ。


そしてそれと同じことを、
「物語形式」でも出来るようにするのである。

物語形式はブログや普通の物書きと違い、
結論を明示せず、暗示で表現するジャンルである。

それさえ分かっていれば、
「この話のテーマはこれこれなのだ」と演説することなく、
物語形式で物書きをすることが出来るはずだ。


もちろん、簡単なことではない。
しかし構造そのものはとてもシンプルだ。


そもそも面白い結論から始めているか?
いないなら、あなたの物語は最終的に面白くない可能性が高い。
そもそも面白い結論がないなら、
ものを書くだけ無駄だ。
posted by おおおかとしひこ at 01:57| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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