ストーリーとは、事件が起こり、解決する縦軸のことである。
それそのものがマクガフィンであることもある。
マクガフィンとは小道具の例で出てくる、
「それがなんであっても良いので、
ストーリーを転がすもの」のことだ。
代表的なのは、
「スパイが奪い合うマイクロフィルム」だ。
それがテロ計画書だろうが、
世界破滅ウイルスのデータだろうが、
スパイが奪い合うストーリーに影響がなかったりする。
で、
たとえばメインプロットそのものがマクガフィンである、
ということもあるのでは?
と思ったのである。
どういうことかというと、
たとえば、
「悪の組織を倒す」ストーリーや、
「A君とB君に言い寄られて三角関係になり、
最終的にどちらかを選ぶ」ストーリーなどは、
その事件や解決そのものを楽しむものではないタイプだなあ、
と思ったわけだ。
その縦軸自体はよくあるタイプのものなので、
むしろ、
主人公のキャラを楽しむためにあったり、
他の独特のキャラを見せるための舞台設定であったり、
とあるエピソードを見せるがための事件であったりする、
差別化が作品のアイデンティティになるタイプの作品が、
それに該当すると思う。
ゴジラシリーズは、
「人間のエゴである核実験で生まれた悲劇の巨大怪獣が、
街を襲い、人間がそれを駆逐する」
という枠組みはどれも同じだが、
人間側をどう描くか、
どういう作戦や退治法があるのか、
などのバリエーションを楽しむものである。
つまり、パターン化したストーリーを選択しておいて、
そのディテールの方に工夫をするときに、
こうしたガワと中身の逆転が起こりやすい。
骨はどれも似たようなものだから、
それ自体はなんでもよくて、
キャラが大事だから、
エピソードが大事だから、
セリフが大事だから、
それをやるために出来合いのストーリーをあてはめる、
のようなやり方だ。
事件の新規性、時代性、
興味深いシチュエーション、
感情移入に値する解決への動機、
二転三転する展開や裏切り、
社会を巻き込んでテーマ性を語ること、
伏線の解消などが、
メインプロットには必要だ。
それは何でもいいから、
ガワ(キャラ、セリフ、エピソード、雰囲気)が本体だ、
と考えているものが、
ストーリー=マクガフィンタイプだと思う。
人気芸能人ありきで、
それを活躍させるタイプのシナリオは、
こうなりがちだと思う。
これらの芸能人を食わせる仕事として、
各キャラを立てたり、
各キャラが均等に活躍するように、
それぞれにエピソードを創作することが、
つまりストーリーのマクガフィン化が、
邦画やドラマに起こっている気がする。
みんな本気でストーリーのことを考えなくなって、
人気芸能人をそこそこ食わせて、
それらのファンさえ見ればその合計で商売の総売り上げを計算できる、
隠し芸大会みたいなシナリオが、
どんどん増えているのではないかなあ、
と思うわけだ。
エンタメという言葉が僕はきらいで、
ストーリー=マクガフィンタイプのこの手のものを、
エンターテイメントなんだからいいじゃないか、
と開き直った言葉に見えるからである。
もちろん映画は興行だから、
そうした作品は一定の商売的な価値はある。
でもそれがなくなって、
面白いストーリーだけになることを、
実は観客は欲していると僕は思っている。
そして、ストーリーを書けない人が、
マクガフィンとしてのストーリーで、
世の中を誤魔化し続けてるように、
僕には見えるのだ。
2021年03月30日
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