2021年03月28日

簡単で奥深いこと

これを両立させることはとても難しい。
だからこそ、価値があるものになる。


難しくて深いこと、
簡単だが浅いことは、
そんなに難しくはない。

難しいくせに浅いのは最悪である。
理解することに時間をかけたうえで、
たいして深くもないことに付き合わされるのはまっぴらだ。
コストパフォーマンスが悪すぎる。

第一、どんどん難しくなっていく途中で、
深くもなって行かず、
浅瀬でキープされていてもなあ、って感じになり、
興味を失ってしまうだろう。
それは退屈という結果になるものだ。


じゃあ、難しくない簡単なものならば、
付き合ってくれるのでは?と考えるものである。
シンプルな表現、簡単な構造ならば、
受け手に負担がかからないから、
受け入れてくれるだろうと考えるわけだ。

しかしシンプルなのに浅いと、
やはり詰まらないものだ。
底が知れた段階で、興味を失うものである。
たしかに理解に必要なコストは低いが、
パフォーマンスも低いわけだ。
安物買いの銭失いのような気分になる。
100円ショップで買ったけど、まあそういうことだ、のような。


じゃあ、深くして興味を失わないようなものをつくることになる。
深くするにはそれなりの複雑さが必要で、
ネタバレしないように階層構造にしたりする。
見通しが効かないようにしつつ、
かつ予想させたり裏切ったりする起伏あるものは、
複雑だからこそ面白い。
両手に余る複雑な設定の、どれが次に効いてくるのか、
ちょっと考えただけではわからないからこそ、予想がつかないものになるのだろう。
(当然、それを理解するのには時間がかかるが)

多くの娯楽はここの領域にいると思う。
面白さを追求する上で、
複雑さは代償のようなものである。


ここから突き抜けて、
さらに名作になるためには、
面白さはそのままで、
複雑さをシンプルにしていかないといけない。

複雑さがシンプルになることで、
面白さまでが失われては、
なんの意味もない。
100円ショップに逆戻りである。

そうではなく、
面白さ、深さは保ちつつ、
シンプルにしていかなければならない。
だから難しいんだけど。

複雑なものがそこにあるとき、
もう少し簡単にならないか、
シンプルになるといいのに、
なんて批評をよく見るが、
それに従ったって、面白くなるとは限らない。
批評は面白さまで保証しない。
理解するためのコストに文句を言っているだけかもしれない。

だから、シンプルにしつつ深さをつくることは、
批評家ではなく創作者の仕事である。
批評家は指摘で終わりだ。
そこからつくることはできない。
逆に批評家とはフィールドでプレイしない人のことだ。

つくる前に批評して客観的になることは重要だが、
作るのは自分だ。
複雑なダシの利いたものをそのままに、
どう煮つめていくべきか、
ということなのだ。


シンプルにするということは、
要素を減らしたり、
余計な情報を減らすということである。

読まれておしまいになることを避けることでもある。
だがしかし、
「読まれたらおしまい」を禁忌にしないことだ。
読まれることだけが詰まらないわけではない。
読めるものでも、その通りになったとしても、
面白いことは沢山ある。
むしろ、読んだ通りになることで快感を感じるようにつくることの方が、
シンプルでも深いものをつくる必要条件ではないか。


シンプルで深いものは、
正解がないものが多いと思う。
金か愛か、なんて二択は昔からある正解のない問いだ。
究極はじゃんけんだろうか。
「問題はすぐに理解できるが、結論は読めない」が重要かもしれない。

シンプルであるということは、
頭の中で問題をそらで構築できるということだ。
頭の中で問題を展開できず、
メモをみながらやるような複雑なことだと、
複雑さを感じると思う。

頭の中で事件の地図や登場人物や、
動機や行動が整理できないものは複雑で、
頭の中にばっちり入れられるものは、
ものごとがシンプルであるということだ。

で、シンプルに頭の中にインストールされたとしても、
だからと言って結論が分らないことが、
シンプルで複雑なものであると僕は思う。

たとえば恋や愛というものは、
構造はシンプルだがだからといって完全に理解できるものではない。
だから古今東西の物語の中心的な議題になるのだと思う。
命、人生、戦争、金、仕事、家族、人間関係、などなど、よくあるモチーフは、
まだ人類が正解を持っていない、
シンプルな題材である。

こうしたものを題材に扱い、
何かを描くことで、シンプルで深いものをつくれるかもしれない。


結論の出ないものが深いものになる可能性があることを書いたが、
結論をその物語で出さないものは、
書き手としての役割の放棄だと僕は批判する。

シンプルですぐには結論の出ない深いものを題材に選ぶことは賛成だが、
だからといって、作者がこれを「どのようなものとしてみるべきか」について、
何らかの態度を表明していないものは、
「ただ物議を醸すものを取ってきただけ」
に過ぎないと思うのだ。
その題材をいかに調理して皆の前に出すことが、
ものを書くことだと僕は考えている。


エヴァが完結したらしい。
終らないサグラダファミリアだと僕は考えていたが、
一応伏線は回収されたそうだ。
(僕は疑っている。新劇シリーズは未見)
結局、複雑なもので深い迷宮ものをつくっただけだと思う。
謎の人造人間エヴァ、謎の組織ゼーレ、
綾波とアスカとの三角関係、
というシンプルな構造を、
死海文書、人類補完計画、母の意識、セカンドインパクト、アダム、月にあるロンギヌスの槍、セフィロトの樹、などを加えて、
どんどん複雑にしていった結果、
深いかもしれないが迷宮でしかないものが、
作り上げられたと僕は感じている。
それは理解する楽しみはあるものの、
頭の中で再構築できるほどのシンプルさはない。
(新劇を全部見たらまた批評するかもしれない)

これを、シンプルに面白くする方法はあり得たのか、いつか考えたいとは思っているが、
そこまで面白い題材だっけ、って考えると、
エヴァは何を描こうとしていたのか、
「逃げちゃいけない」がテーマなんだっけ、
とよくわからなくなるので、またその時に考えるとしようか。


そもそも構造がシンプルであること。
そして組み合わせは無限であり、
答えが容易に決まらないこと。
そしてそこに納得の行く、
「その文脈での答え」を用意すること。

それがシンプルに求められるものである。

シンプルだから中身もスカスカであるとか、
複雑なのに中身がないのは論外だ。
対抗馬は、
複雑だが深みがあるもの、
だろうか。
posted by おおおかとしひこ at 18:01| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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