2021年04月02日

キャラクターがイコンになるのか、ストーリーがイコンになるのか

映画ポスターのブロッコリー化を止めたい。
ダメな漫画の表紙みたいで映画の低能化だと僕は思う。

映画のイコンはなにか?


「その映画を象徴するもの(絵)」を映画のイコンということにしよう。

たとえばETなら、
「指と指が触れ合うところ」や、
「自転車の前カゴにのせて自転車が飛んで月にシルエットになるところ」
だ。

バックトゥザフューチャーなら、
タイムマシンのデロリアンだ。

スタンドバイミーなら、
線路沿いに4人が歩いている姿だろう。

ナウシカならば、
メーヴェに乗ったナウシカと、眼下の王蟲や腐海の住人たちか。

ロッキーならば、
フィラデルフィア美術館の階段に登り切り、
朝日を見ながら両手を突き上げた男の姿だろう。

ジョーズなら、
美女が泳ぐ海の下から巨大鮫が狙っている絵だ。

SWep1では、
アナキン少年の影がダースベイダーになっている、
大変ワクワクするポスターがあった。
(本編の象徴はポッドレースかな)


そうした、
「ストーリーを象徴するオリジナルな絵」
を持つものが、名画の条件だと僕は思う。

00年代くらいまでは、
そうしたストーリーとイコンの幸せな関係があったと思う。

しかし最近ブロッコリーみたいなポスターが増えてきて、
大変つまらない。
ブロッコリーとは斎藤工が表現して有名になった、
真ん中に主要キャストの写真をコラージュして、
ストーリーを示すというよりも、
この映画にこのキャストが出てきます、
という勢揃いポスターのことである。

主要キャストが深刻な表情をしていたり、
笑った顔をしている、
表情違い、レイアウト違いでしかなくて、
そのストーリーがどのようなものであるか、
まったく予想がつかない。

これは、邦画界が、
ストーリーを捨ててキャストだけを取り始めた証拠だろう。

人はキャストを見に行くのであり、
ストーリーを見に行くのではない、
なんでもいいからキャストを集めて、
なんでもいいからショウをする、
というのが邦画界宣伝部の映画の見方ということだ。

僕はこれが間違っていると考える。

僕らはストーリーを見に行く。
キャストを見に行くのではない。

美女と鮫を見に行くのであり、
美女は美女であれば誰でもいい。

タイムマシンで過去に行って、
母親に惚れられてしまったトラブルを解決する話を見たいのであり、
そのキャストは誰であっても構わない。
よっぽど下手じゃなければね。

不屈の意思を通した岩のような男を見に行くのであり、
それがシルベスタースタローンかはどうでもいい。


面白いストーリーというのは、
キャストの影響をうけない。
もちろん、うまいキャストのお陰で、
より良くなったり、
下手なキャストのせいでストーリーが台無しになることはあるが、
それはストーリーの出来や不出来に比べれば、
ブレ幅は小さい。
それがシナリオとキャストの関係である。

その最たる比較が、
シナリオが異なり、キャストが同一の、
ドラマ版風魔と舞台版風魔の出来の差であろう。
まだ下手だったけど回を追うごとにうまくなっていったドラマ版と、
キャラクター芝居として完成されているはずの舞台版と、
舞台版の方がアドバンテージがあるにも関わらず、
舞台版の話は詰まらない。
「あの人に生で会える」刺激で担保されているが、
それがないDVD版は、「おもしろい舞台」ではない。
(もっとも、いまや有名キャストになった彼らの、
初期作品としての記録価値により、
中古が高騰しているのが微笑ましい)

ドラマ風魔は、勿論キャストの頑張りによって名作になったが、
極論キャストをフルとっかえしても名作になり得る。
(今や村井以外の小次郎は誰を持ってきても二番煎じにはなるだろうが、
最初にそっちを見ればそっちを名作と思うはず。
だって第一話では誰も知らないキャストばかりだったのだよ)


話を戻そう。

シナリオが主で、キャストは従だ。
しかし最近のブロッコリーは、
キャストを主にして、シナリオを従(ゼロ)にしている。

それは果たして映画と言えるのか?

ちなみに僕は風魔DVDの、
キャストのブロッコリービジュアルには反対だ。
僕が描いたDVDパッケージデザインは、
夜の街に小次郎たちが飛び交う、
闇の中の学ラン忍びのイメージだった。
しかし予算の関係で、
「キャスト以外の背景を撮る」ことが不可能だったため、
せめて風林火山と黄金剣を交わした、
あのポスタービジュアルになったわけだ。
予算さえあればもっとイコン化できたろうに。


勿論、事務所との関係で、
「ポスターに顔出しを」があるのはわかる。
それは、メインビジュアルありきで、
その下にキャストの顔写真を並べればいいだけのこと。
メインビジュアルをブロッコリーにするのは、
宣伝部の間違いだと僕は考えている。

一方、
「イコンを提供できていないシナリオ側」
にも問題があると考える。

このストーリーが象徴される、
強烈な一枚絵を提供できていないから、
ウリがぼやけて、
キャストをウリにせざるを得ない事情もあろう。


僕の想像だけど、
ポスターデザイナーは、自分の手で絵を描いてないのではないか?

自分がこの映画の表紙の看板を描くとしたら、
という発想で仕事をしてないような気がする。
キャストの写真のフォトショコラージュマシンに成り下がっていて、
「絵を描く」仕事を放棄していると僕は思う。

フォトショは合成には向くが、
それ以前の「絵を描く」発想を鍛えはしない。
手でまずカンプを描くことがデザインだというのに、
いきなりフォトショを立ち上げるから、
フォトショの得意なコラージュしかできないのでは?

一から絵を描くことを考えれば、ジョーズの絵は描ける。
写真をコラージュしていては、
カメラが入れない位置からのあのポスターの絵を描くことは不可能だ。
ジョーズのイコンは、「絵」だからこそ生まれたと思う。



キャラクターがストーリーのイコンになってしまうべきか?
たとえばロッキーならば、スタローンのドアップをイコン化するか?
ブルースリーはそうなった。
だから「死亡遊戯」だろうが「燃えよドラゴン」だろうが「ドラゴン危機一髪」だろうが、
どれも同じ映画に扱われる。
ストーリーに違いがないわけだ。

スタローンはそのことを知っていたのだろう。
自分が出る映画はすべて「マッチョが頑張る」話に見えてしまうことを嫌い、
コメディや新しい役に挑戦したのだと思う。
ロッキーは当たり役として大切にしながらも、
ランボーは暗い役にするなど、性格を変えて、
イコンとして期待されることをなるべく変えようとしてきたはずだ。


ブロッコリーはつまりキャラクターのイコン化である。
そのキャラクターが初めて見る人ならばそれもあるが、
見知った俳優のよく見る表情ならば、
それはキャラクターのイコンではなく、
俳優の写真でしかない。


ストーリーをイコン化しなさい。

それは、イコンのあるストーリーをつくれ、
ということに他ならない。

あなたがシナリオを書きながら、
ストーリーを象徴するいくつかの場面を、
下手くそながらも絵に描きなさい。

それが見たこともない絵でない限り、
あなたの映画のポスターは、ブロッコリーに犯されるだろう。



余談ながら「いけちゃんとぼく」のポスターは最低だ。
宣伝部の仕事は最低レベルのクリエイティブで、
「デザインイメージを事前に決めずに、
色んな場面を現場で撮っといてと宣伝写真カメラマンにまるふり、
撮影後上がってきた膨大な写真から、
芸能人を切り貼りして、
しかもいけちゃんCGが出ていないポスターにする」
という最低の仕事をした。
僕はこの一件で大変怒り、角川映画を出入り禁止としている。

物語をなんだと思ってるんだ。
色んなイコンを作ろうと闘っている人に、
どれだけ失礼か自覚してるのだろうか。
posted by おおおかとしひこ at 00:37| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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