僕はとても神経質で細かい、乙女座の星のもとに生まれている。
だから昔はどこまでも思い通りにならないと、
創作物は気持ち悪かった。
絵だって「たった一本の線」にたどり着くまで徹底的に描くし、
俳句だって17音は考えに考えた上で、これでなくてはならない、
という数学的な最適解のようになっているべきだ。
しかし、どこまでも自分の思い通りのものを造るには、
映像ではとくに金と時間がとてもかかる。
CMだと450フレームしかないから、比較的思い通りのものが作れる。
しかし自分ひとりがスポンサーじゃないから、
思わぬ改訂をする必要がでてきたりして、
当初思い描いたものとしてリリースできなくて、
とても嫌な思いをしたことは沢山ある。
どんなに事前計画したって、
最終的に思い通りに出来たものは一個もない。
ほとんどは「アレとアレが足りていない」なんて後悔の塊だったりする。
その考え方を変えられるようになってきた。
つまり、
「絶対に変えてはいけない、クリエイターが死守する部分」と、
「まあどっちでもいいよ、適当にしなさいという部分」
に分けられることが分ってきたからだ。
そこさえ変えなければ、ほかの人が口出しして改変したって、
大勢に影響はない、という線引きが、
なんとなくわかってきた、という感じだ。
手慣れてくれば、
「そこは好きにさせて、口出ししたぞという満足感を得させる」
という隙をわざと作っておき、
相手に花を持たせるようなことすら覚えてくる。
自分の実力の足りなさで、
思うように出来なくて苦しんだり、
自分が全力を尽くしてもなお足りないものにしかならなくて、
絶望する状況から、
この考えは僕を助けてくれるわけだ。
「ここさえ死守すれば、本質は変わらない。
逆にここ以外は何になっても構わぬ」
を、増やしていくと楽になる。
主役が違う俳優になったとしてもストーリーが面白いならば、
本質に遜色はないだろう。
途中の展開が多少変わっても、
最初の伏線と最後の解消が変わらなければ、
ストーリーの本質は変わらない場合もある。
そう考えることで、
どこに力を注ぐべきで、
どこはいい加減でいられるのか、
ということを見極められるようになるはずだ。
こうすると、余裕が生まれる。
「全てを自分の思い通りにしないといけない」
とぴりぴりしてる頃は、
神経を張りつめないといけないから、疲れるし、
針の穴を通し続けることで疲労がたまる。
そうではなくて、
ここは余裕をもって何でもいい、という部分があると、
人の心はリラックスして、
よりよいものを積み上げるチャンスが来るような気がする。
ここは死守するべきところでは、
もちろん全力を尽くし、他人の口出しは許さないが、
しかしその他はいかようにでも自由に開放しておくのだ。
その線引きの見極めは年季がいると思う。
しかし、それがあるとないとでは、
肩の力の凝り方が変わってくると思う。
最初にそれを感じたのは、クレラップのCMだった。
風魔のドラマの時は、
予算の関係で自分の思い通りになるところなんてほとんどなかったから、
自分の思い通りになるのは脚本だけだと早々に悟り
みんなこれを実現するためにそれぞれ努力してくれ、
というスタンスにした。
(結果、安くたってみんなの魂の籠った作品になったわけだ)
映画は色んな人が好きなことを言い、
まったく自分の思い通りにはならなかった。
どこを守るべきか、その線引きが出来ていなかったのだろう。
最近の作品の作り方は、
その線引きがうまくなってきた気がする。
ああ、そこはご自由に、が言えるものになってきた。
達人の剣は柔らかいという。
そんなのぐにゃぐにゃで、人を斬れるわけないじゃないか、
と昔は思っていたが、
そうではなくて、
普段は柔らかく持って臨機応変に動けるようにしておき、
いざ斬るときだけほんの一瞬剛剣を振るう、
ということだと想像できるようになった。
太極拳の教えも脱力から入るが、
100%脱力して闘うのではなく、
脱力7分、剛拳3分、ということなのだろう。
ガチガチに固まって、
それ以外一切ない、という部分と、
意外とそうでもない部分がある。
前者だけしかやらなかったら、
それ以外の解の存在に気づかず、
落とし穴から出られない可能性がある。
広くものを見て、客観的に判断するには、
柔かい剣で渡っていくことが大事だと思っている。
どこだけはガチガチにするか。
そこを見極めていくことが、
自分の作品の本質は何かを問うことだ。
2021年04月09日
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