飛鳥配列の初期の姿がわかり、
最終形に向けての設計の流れがなんとなく掴めてきた。
意外と薙刀式と近い考えが随所にあり、
僕が最初に手を出したカナ配列が飛鳥だというのもよくわかる。
しかし薙刀式と飛鳥には決定的な、たぶん大きな違いがあって、
それが脳内発声の前提だ。
考えるときや書くときに、
脳内発声がある人とない人がいることは、
最近になってようやくわかってきたことだ。
その発見よりもさらに問題をややこしくしているのは、
「人は自分の思考様式と他人のそれが同じだと思い込んでいる」
ことではないだろうか。
親指シフトは脳内発声のある人がつくり、
使っているように思われる。
それを出発点とする飛鳥は、
数々の記述から、脳内発声ありを前提として作られていることが窺える。
そして、脳内発声なく書く人がこの世にいることなど、
全く考えに至っていないこともだ。
僕は脳内発声がないので、
薙刀式の運指を考える時は、
指がスムーズに連続すれば良い、
と考えていた。
ただ音がない分、カナには空間的な感覚があり、
このカナは右手でこれは左手で、とか、
このカナは下段とか中段とか、
このカナは○○指で打ちたい、
などの感覚を重視したものがある。
それと、飛鳥のカナへの感覚はだいぶ異なるようである。
脳内発声前提の飛鳥では、
打鍵の勢いと発声(肉体の発声と脳内の発声は一致するようだ)
の勢いを、一致させようとした記述がたくさん見られる。
強く打ちたいカナ(破裂音、擦過音)などは強く打つキーに、
弱く打ちたいカナ、すばやく打ちたいカナは、
それぞれそのようなキーへと配置されていっている。
後期によく言われていた倍速打鍵は、
語尾や拗音は文字よりも速く打つから、
それをしやすいような配置にする、
という考え方も、
「一文字を言う速度は一定ではない」
という「言い方」を基準に生まれていると思う。
親指シフトは、等速の打鍵を前提とした配列だ。
「お・も・て・な・し」のようにだ。
(オリンピックの外国観客禁止によって、
そういえばこのコンセプトも消失したねえ)
語尾や拗音部などは加速して、
句読点や断言や疑問を呈するような文意を確定する場所は、
減速する、
のように考え、
そのような指のリズムになるように、
カナを並べていたらしい。
新下駄はこれとは異なり、
統計的に出るカナを特等席に並べて、
それと連接しやすいカナを連接しやすい位置に並べた、
純粋に統計根拠の配列だ。
倍速とか減速とか、文意によるものは一旦無視して、
統計的に出る連接を倍速化しようという考え方である。
だから、飛鳥は文意に手のリズムが合っていて、
新下駄は確率的に手のリズムが加減速するのだと想像できる。
書き手の意図に添いやすいのは飛鳥、
トータルで速いのは新下駄、
どっちでもなく等速なのが親指シフト、
ということが言えるだろう。
いずれにせよ、
脳内発声がある前提の議論だと思われる。
脳内発声がなければ、
新下駄はただ手の動きが確率的に速いから、
文意のリズムと関係なく書けると思う。
そういう意味で、新下駄は脳内発声がない人に向いてるのかも?
(作者のkouyさんが、脳内発声がどっちのタイプで、
どう考えていたかは不明)
一方薙刀式は、
脳内発声がない僕が、それが普通だろと思って作った配列だ。
音のリズムは基準にしてなくて、
脳の概念の大きさみたいなのが基準になっている。
脳内発声がある人が薙刀式を使ったときのことは、
設計の範囲外だ。
でも指の動きはある程度合理的だから、悪くはないと思う。
しかし発音の強弱や速度との一致が気持ちいいかどうかまでは、
保証の限りではない。
薙刀式の清濁同置についても、
僕は音がなく濁音を概念的に捉えているので、
清音と同じ位置が合理的だと考えるが、
飛鳥の清濁別置は、
「が」は「か」よりも強く言いたいから、
「か」と同じ位置にあるべきではない、
という無意識が働いているのだと想像できる。
それを無意識では捉えているが言葉にはできないため、
「清濁別置の方が運指が合理的になる」
どまりでしか、説明できてないかもしれない。
議論というのは、
言葉通りの解釈をして揚げ足取り合戦になるよりも、
相手の論の前提をさぐって、
「だからこう考えているのか」
を考えた方が建設的だ。
「合理的な運指」を考える時、
脳内発声がある場合の合理性と、
ない場合の合理性が、だいぶ違うのではないか、
ということが、
飛鳥の成り立ちを熟読して思ったことだ。
ちなみに文章を読む時にも、
脳内発声ありなしの人がいることが知られている。
僕は本などを読む時は脳内発声がないのだが、
コピー打鍵のときは原文を脳内発声してしまう。
英語を読む時もそうだから、
苦手で、プレッシャーが強い時はそうなるのかも。
タイパーたちは脳内発声なしでコピー打鍵するそうだが、
暗記してるからかもしれない。
初見文でどうなるのかは、聞いてみたい。
脳内発声のありなしは、
その機構や効率性の性質が異なると思われる。
飛鳥と薙刀式は、
その基礎になる設計アイデアは似ているのだが、
全く違う配列になった。
それは、脳内発声という変数が決定的な差を及ぼしているように感じた。
飛鳥が僕に合わなかった理由は、
記憶負担や指使いの合わなさよりも、
そっちの方が大きなファクターかもしれない。
(追記)
議論をわかりやすくするため、脳内発声あり/なしに明確に分けたが、
「ある時とない時がある気がする」
「こういう時はあり、こういう時はない」
「ありなしをコントロール出来る/出来ない」
などの人もいると思われる。
これが声でなく、光や色、触感などになる人もいると思う。
共感覚(五感が混在すること。あるものを見たら音を感じるなど。
鋭い文字を見たら痛そう、などもそうだ)
が大なり小なりあるから、そこと関係するかもしれない。
脳内発声無しの私の体感では「プロ」は指が勝手に動くのです。だけど「たぷたぷ」と打てと言われると、「ありゃ?ぷ?プロのプか」という手順で打つのですな。一方で、常に脳内発声があるとしたら「プロ」と打つ度に「ぷ」の記憶が定着するのでないかと思うのです。
全く同感ですね。
プロが思い出せない時、「たぶん」を思い出して、「ふ」+半濁点同時押しをしたりします。
清濁半同置の薙刀式ならではのリカバリーです。
逆に、「プロ」が手慣れた運指になってるとき、
「ブロック」を「プロック」と打ってしまうミスもあります。
(手順の誤り。スマホとコーヒーを両手に持ってる時、スマホをベッドに投げようと思ってコーヒーを投げてしまうミス)
脳内発声は声+指差し確認のように、脳内音声読み上げチェックがあるのかも。
清濁別置が僕はマスターできた試しがないので、
脳内発声が関わっている可能性がありそうです。
同様に僕は昔から暗記が苦手だな。
脳内発声なしで暗記しようとするからかしら。