2021年04月06日

小説とシナリオの違い

「地の文の心理描写の差(一人称表現)」
などとよく言われるが、分かりやすい例を仕入れたので。


綿矢りさ「蹴りたい背中」の冒頭部から。

 さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。


若い作者の、感性のみずみずしさが爆発している。
誰もが通り過ぎた自意識過剰な部分と、
脱出できない授業中の風景が、
鮮やかに立ち上がってくる。

ところがこの「自意識」の部分、
すなわち、寂しいことや、それを周囲に漏らすまいと、
プリントを細長く千切ることで打ち消そうとしている、
小さくて懸命な部分は、
シナリオにはならない。

正確にいうと、
この描写をシナリオでやっても伝わらない。

ではこれをシナリオにしよう。

○教室、内、気だるい午後

  りさ(16)が、プリントを細長く千切っている。


え?たったこれだけ?
あの気持ちの豊かな部分はなくて、
こんな身も蓋もないものに?

豊かな国語が、無味乾燥な数学になってしまった感じ?

そうなのだ。

シナリオには客観的なことしか書かれない。
教室があり、光線があり、午後の詰まらない授業があり、
女子高生がプリントを千切っていることしか、
ここでは客観的ではないのである。

その女子高生がどういう気持ちで千切ってるかなんて、
「外から見たら」、知ったこっちゃないのだ。

だから、この客観的な絵を見たほとんどの人は、
「暇なんだな」としか思わないだろう。

「暇で、することもないからプリントを細長く千切る遊びをすることで、
せめて集中した時間を持とうとしているのだ」
までしか伝わらない。

彼女がどんな名女優に演じられたとしても、
「さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。」
という気持ちを伝えることは不可能だ。

「暇なんだな」としか分からず、
「彼女は、さびしさが鳴っている」
と解釈することは出来ない。

「さびしさは鳴る。」は、
ふつうにない表現で、
これを映像化すること(客観的な何かを組み合わせて表現すること)は出来ない。
仮に鈴を鳴らす絵を撮っても、「鈴が鳴る」絵にしかならない。
そして、
「客観で表現できないふつうじゃない表現」
だから、文学(あたらしい言葉の組み合わせで新しい意味をつくること)
なのである。

逆に、文学の一人称的な主観の内的な世界は、
ふつうじゃない(客観ではあり得ない)表現探しである、
とすら言える。



演劇、映画、シナリオがするべきことは、
彼女の文学的気分を描くことではない。

退屈している彼女に、
このあとどんな事件が起きて、
どんな風に解決していくか?
という、「事件と解決の流れ」である。

その合間に彼女がなんとも言えないさびしさを感じざるを得ない、
辛い事件があり、
その時ふと見た鈴が落ちたり、
何かの音が鳴った時だけ、
「さびしさは鳴る」と表現できたことになると思う。

たとえば恋人が死んださびしさだとしよう。
彼がいつも鳴らしていた自転車のベルがあったとして、
主人のいない自転車のベルを一人鳴らす、というようなシーンが、
映画的な「さびしさは鳴る」である。

あるいは、「ただ漠然としたさびしさ」は表現できないか?
たとえば女子高生が、自転車のベル、鈴、ドラム、ノック、
など、いろいろな鳴り物を鳴らす絵を撮る。
そのあと誰かに言うのだ。
「このどの音を鳴らしても、私のこの感じを表現できない」
「どんな?」
「さびしさ」
鳴らないことで鳴ることを示す例だ。
ちょっと演劇っぽいよね。演劇は、映画より小説に少しだけ近い。


要するに、映像の方がカロリーが高いのだ。

文学、言葉による表現は、
客観を圧縮することができる。
逆に、どう圧縮するかが、文学なのだ。

ちなみに「蹴りたい背中」は、
ストーリー展開を重視するシナリオ的な直木賞ではなく、
新しい表現やテーマを切り開いたことに与えられる、
技巧賞、芥川賞受賞作だ。
読んだことはないのだが、
この冒頭から察するに、ストーリー展開よりも、
彼女の気分の描き方が上手いのだろう。


ここは脚本論であるので、
小説家になってはいけない、
と戒めようか。

あなたは主観表現でなく、
客観表現でストーリーを語らなければならない。

僕は常々、小説の扱える世界より、
映画の扱える世界の方が狭いと言っている。

小説では当たり前なことを、
削ぎ落として、
客観的な丸裸で勝負しなければならない。

言葉一つで誤魔化し、翻弄できる部分は、
シナリオにはない。

プリントを千切る女子高生は、
さびしさが鳴っているのではなく、暇なのだ。



ちなみに、冒頭のこの続きも引用してみよう。

紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。気怠げに見せてくれたりもするしね。葉緑体? オオカナダモ? ハッ。っていうこのスタンス。あなたたちは微生物を見てはしゃいでいるみたいですけど(苦笑)、私はちょっと遠慮しておく、だってもう高校生だし。ま、あなたたちを横目で見ながらプリントでも千切ってますよ、気怠く。っていうこのスタンス。
 黒い実験用机の上にある紙屑の山に、また一つ、そうめんのように細長く千切った紙屑を載せた。うずたかく積もった紙屑の山、私の孤独な時間が凝縮された山。


徹底徹尾、まだ事件は起こらない。
風景描写とそこに重ねた心理描写が続く。

一人称小説とは、
「ある風景の中、私が思ったこと」
「ある風景を見て、私が思ったこと」
「私が思ったことを重ねる為の風景を探してくる」
ことである、というと言い過ぎだろうか?

シナリオではこうしたことはしない。
事件とその解決を探すのである。


たとえばシナリオ的にするならば、

「何故答案を白紙で出したのか、先生に納得いくように説明してくれないか」

などの、「事件が起こっている渦中」から始めるべきなのだ。
(そういう話かどうかは知らないので、
適当にでっちあげてます)
posted by おおおかとしひこ at 00:04| Comment(7) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
小説の表現とはつくづく、自意識を拗らせた方面に豊かなのだなと思います。
でも小説をわざわざ買って読むような人は、そういうのが好きなんですよね。
そういう客層にリーチさせるのもまた難しい。
Posted by 伊吹矢 at 2021年04月06日 16:16
>伊吹矢さん

三人称小説を書けばましになると思います。

日本は明治以来私小説の畑がありますが、
そこで耕すことも、別のところで耕すことも、
出来ると思います。

SNSやYouTubeが発達した21世紀では、
高度な自分語り芸だけでは、小説は持たないと思いますね。
Posted by おおおかとしひこ at 2021年04月06日 16:34
自分語りというか、心理描写の豊かさでしょうね、小説の特徴の一つは。

極端にいうと、主人公がぽつんと一人で六畳一間に座っているだけでも、内面の劇的な葛藤は描けるわけです。
つまり小説は、主人公がなにもしなくても、場合によってはシナリオでいうところの「ターニングポイント」や「ミッドポイント」「ピンチ」などを、心理的葛藤だけで描ける(設定できる)のだと思います。

ただまあ、それはおっしゃるように21世紀の現代ではどこまではやるのか、通用するのか、という問題はありますよね。

つまり小説の特徴が優位性にはならなくなってきている。だから映画や漫画みたいなラノベがはやっているともいえるのかな?

個人的には、映画や漫画のストーリー性を取り込みつつ、前述した内面の劇的葛藤をおりまぜるのが小説としてはいいのかな、とも思いますが。

ただちょっと話がずれるかもしれませんが、映画や漫画でもナレーションを使えば、内面の葛藤を描くことはできますよね?
たぶん相当、実験的な作品になるので、珍作にしかならないのかもしれませんが。
漫画「東京大学物語」の面白さは、それをやったところにもあるのではないかと思います。
Posted by ふじ at 2021年04月07日 11:55
>ふじさん

ナレーション(第三者によるもの)、ボイスオーバー(本人によるもの)は、
紙媒体である漫画では比較的ポピュラーです。
古い例ですが銀河鉄道999の羊皮紙吹き出しのナレーションや、
少女漫画などでは、本人の心の声によって、心の中の方が豊かだったりします。
(だから実写少女漫画は物足りなくなる)

映像においては、心の中が映せないので、
「人と人の間にあること」が写すメインです。
脳内会議場面なんかは、心の中を「人と人の間」に変換しようとした表現のひとつですね。

少女漫画の心の声をすべて本人の怒涛のナレーションでやった実写映画に、
「私の優しくない先輩」があります。
実験の失敗として見ておくべき映画です。
全盛期の川島海荷とはんにゃ金田が主演なのにみてられない。
この寒さは、分析に値しますよ。

単純な感想は、「ぐずぐず考えんと、はよやれ」ですかね。
映像におけるストーリーは、
just do itでしか語ることができないのです。

そういえばドラゴンボールのアニメで原作に追いつきそうだから引き伸ばすのに、
八奈見乗児のナレーションを増やして引き伸ばしていました。
ナレーションや心の声は、
映像から見ると「単なる引き伸ばし」という冗長部分です。
Posted by おおおかとしひこ at 2021年04月07日 12:11
確かにおっしゃる通り、漫画(特に少女漫画)は心理描写が豊かですね。
そうするとますます小説の優位性ってないですね(笑)。
小説より漫画がはやるわけです。
余談ですが、綿矢りさを読んだ時に「悪くはないけど、この程度の出来の作品は少女漫画にならたくさんあるんじゃないか?」と考えたのを思い出しました。

>「私の優しくない先輩」
タイトルは知っていましたが、そういう映画ですか!
見る価値ありそうですね。ご教授、誠にありがとうございます。
失敗作とわかっているのをわざわざ見るのも、なかなかつらいものがありますが(笑)、鑑賞しようと思います。

>映像におけるストーリーは、
>just do itでしか語ることができないのです。
時間芸術のせいですかね。なるほどー。

いつも丁寧なご回答、本当にありがとうございます。
Posted by ふじ at 2021年04月07日 12:34
>ふじさん

小説の優位性は、絵に縛られないことだと僕は考えています。
ラジオドラマの教科書でよく言われるのが、
「世界一の美女」という表現です。
映像でも漫画でもこれは無理なのに、
簡単に出来てしまう。

あるいは、「花束がドアを開けた」という表現もできます。
ピンポーンと鳴ったのでドアを開けたら、
誕生日おめでとうという彼氏が、
ドアに入らないくらいの花束を抱えていた、
のような場面をこういう風に表現することもできます。

圧縮だけではなく、それこそ豊かに広げることも可能でしょう。

つまり他のメディアでは不可能な言葉の魔術師こそが、
小説の本道ではないでしょうか。

ラノベでの最悪の例のひとつ、
「キンキンキンキン!」(はげしく剣を打ち合うさま)
の、真逆というか。
Posted by おおおかとしひこ at 2021年04月07日 12:55
その通りだと思います。

言葉だけで、読者の数だけ無数の美女を想像させることができる、かつ、それが世界一の美女である。それができるのが小説ですよね。

ただ小説家の能力の衰退や読者の想像力の衰退によって、「世界一の美女」の姿が受け手に思い浮かばなくなってきているのも現代の趨勢なのかな、とも愚考します。
ラノベのキャラのイラストって、作者や読者の想像力の貧困さをおぎなうためのものだと思うのです。

色々、想像するのがつらい読者も多いのではないでしょうか。
小説家の松岡圭祐は、小説を読んでそういう想像ができるのは、40人に1人くらいしかいない、といっているそうです。
数字の信憑性はともかく、すごい想像力のクリエーターがすごい映像で示してくれた方が、お客としては受動的で楽ですからねえ……。

だからといって小説を書く時に、大岡さんのおっしゃる優位性を考えずに執筆するのは問題なのは当然であります。

長々とつまらない文章を書いて、本当にすいません。
Posted by ふじ at 2021年04月07日 13:25
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