2021年04月06日

「弱いものは淘汰されても仕方ない」的な考え方の裏に潜むもの

「弱いものは淘汰されても仕方ない」的な考え方に対する教科書的な答えがよく出来ている。
https://mobile.twitter.com/hiraizm/status/1372883810174394369
淘汰は最強以外全部を殺すものではない。
意思を持つ神の仕業でもないし、結果的な問題に過ぎない。

我々脚本家はここから何を読解するべきか?
「お前は弱くて生きている価値がないから死ねとかつて言われ、
傷ついた経験があるから尋ねている」
と、動機に想像を馳せることである。


「お前は弱いから死ね」と言われて反論できなかった。
自分に生きる価値はないのだろうか?
進化論も同じことを言っているように思える
(浅い理解なのだが)。
私は死ぬべきか?
死んだ方がみんなが幸せになり、
より強くなるのではないか?

そう思う人が、その「本当の答え」を求めて、
問いを発しているのではないか?

この問い方は二重に間違えている。

ひとつには、進化論の理解が浅いこと
(神の意思ではなく結果から見た評価に過ぎず、
また最強以外即滅ぶのではなく、
最強遺伝子以外の者は他の遺伝子プールの担い手であり、
いつなんどきそれが有効であるように時代が変わるかも知れないこと)、
ふたつには、人生相談をしたいのに、
生物学者に答えを求めていることだ。

生物学者は結果的進化論がどのように有効か考えたり実験したりするのが仕事ではあるが、
ある個人の人生観を決定しない。

にも関わらず質問者が聞きたいのは、
「ほんとうのことが知りたい」だ。
あるいは、
「分からないという回答ではなく、
スッキリさせてくれる答えを知りたい」である。

新興宗教はこうしたところにすり寄ってくる。

傷ついた心を、断言することで一刀両断して、
スッキリさせて欲しいのである。

科学はこのような役割はない。
ただ客観的事実、分かっていることまでしか答えない。

この差分が、人の心の闇であるとも言えるだろう。



なぜそんな問いをするのか?
何を知りたいのか?
ほんとうはどういう答えを無意識に求めているのか?

動機や背景を考える練習台に、
ちょうどよかったのでとりあげた。



このように、
表面からは見えにくいところに真の動機があり得る。

表面と真の動機、両方を創作してはじめて物語である。
posted by おおおかとしひこ at 20:49| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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