表現には客観性があるべきだ。
主観に大きく傾いた表現は分かりにくく、そして独善的である。
その分かりやすい例を自由が丘のロータリー交番前で見た。
「タクシーは学園通りで拾ってください」
という看板の話。
近年の自由が丘駅前ロータリーの改修で、
タクシー待機場所が増えたものの、
混む時はタクシーが全然来ないことも稀によくある。
とくに終電後とか、
交番前のタクシー乗り場で長蛇の列が出来るときがある。
(コロナで最近見なかったけど、金曜とか復活し始めている)
夜中1時にずっと列で待ってるくらいなら、
目黒通りと環八を結ぶバイパス、
学園通りで拾った方が捕まりやすいことは、
地元ならだいたい知ってることだ。
それを親切にも教えてくれてるのだろう。
で、
その文面がおかしいぞ、というのが本題。
「タクシーは学園通りで拾ってください」
と言われても、
知らない人は学園通りがどこにあるかを知らない。
そもそもタクシーを捕まえる人は、
自由が丘の人ではないだろう。
どこかから自由が丘で遊んで、
遠いところへ帰る人たちのはずだ。
駅前を見渡しても学園通りは見えていない。
ロータリーの奥、本屋の脇からピーコックを覗くようにすれば、
ピンポイントで見えるが、
タクシー待機場所からはそれを知る由がない。
スマホで地図を見ればいいじゃないかというが、
詳しくない街で、現在地からロータリーを越えてワンブロック先、
見えてないところへ行く勇気は普通はない。
(だめだったらタクシー待機列の最後尾に逆戻りだし)
つまり、
「タクシーは学園通りで拾ってください」は、
学園通りがどこか知ってる人向けの情報で、
そんな人は地元だから歩いて帰れるからタクシーは不要で、
本来必要な、学園通りがどこか知らない人には意味不明の情報だ。
すなわち、「知るか」で終わりの情報なのである。
「タクシーは学園通りで拾ってください」
と表現した人(警官だろう)は、
学園通りがどこか知ってる人だ。
なんなら毎回説明するのがめんどくさいから看板を作ったのかも知れない。
ここに、主観と客観性の齟齬がある。
表現者は学園通りを知っている。
観客は学園通りを知らない。
表現者の主観になっている前提を、
観客が知らないことを表現者が知らないのである。
表現者と観客の前提となる情報を揃えることが、
表現の基本である。
このことを、未熟なこの表現者(警官)は気づけなかったのだ。
一般化しよう。
表現とは、
観客の前提を表現者が知ることと、
表現者本人の前提を表現者自身が知ることの、
二つが必要である。
そして、両者の前提の差異を比べることが必要だ。
どちらかの前提が異なっていたら、
その前提を揃えることが、表現の前段階で必要である。
それを、話のセットアップという。
(この記事においては、「で、〜本題。」前までがセットアップ)
多くの誤った表現者は、
自分の前提を観客が持っていると思い込む。
そこが「客観性の欠如」なのである。
つまり客観とは、
「自分の前提と相手の前提を相対比較すること」
「不足部分をその場で必要分だけ補うこと」
であると言えるわけだ。
学園通りの件に戻れば、
表現者がするべきことは、
地図を書くことであった。
現在地、ロータリー、タクシーの拾える場所を図示して、
「このあたりでタクシー拾えます」と添えればよかった。
「学園通り」の名称は不要。
タクシーを拾うためにするべき行動はその場所へ行くことであり、
学園通りを覚えることにはない。
もっとも、親切にも、
大動脈である目黒通りと環八も略図として入れて、
そこを結ぶ学園通りを描いてその名称を入れれば、
地図アプリで再確認して理解する人もいるだろう。
(学園通りを理解させて、前提知識にするわけだ)
しかしそこまでやらない限りは、
学園通りの名称を入れることはノイズになる。
なぜなら観客は学園通りを知らないし、
知る必要がないからである。
「タクシーは学園通りで拾ってください」
という文言は、
一見間違っていない正しい知識だから、
ここに赤が入るはずがないと表現者(警官)は思っている。
学園通りを濱田通りと間違えたり、
タクシーをバスと間違えるのが間違いだと思い込んでいる。
そうではない。
相手の理解している前提を見誤っている、
そしてそれを自覚していない、
このただ一点において、
この表現は誤りである。
あなたの主観は、どんな前提で成り立っているか?
観客の前提は?
そしてそれらはどう違うか?
違った時に、どう説明するとうまく埋められるか?
これらをすべて把握して、はじめて客観に出られる。
その一つでも欠けたら、
主観的で独善的だ。
2021年04月08日
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