リアリティの話を別の角度から見てみよう。
たとえば音楽。
壮大なオペラに比べて、
JPOPは「等身大のじぶん」を歌うようになった。
それはスケールダウンである。
等身大のことを事細かに歌えはするが、
等身大の範囲までしか歌えない。
3分や5分で歌える範囲は、
等身大が歩いて行ける距離までだ。
一方、
オペラ、あるいはビジュアル系バンドなどの、
「作り込まれたフィクション世界」では、
もっと大きな空間と時間を相手にする。
等身大?
そんなものではない。
一族の陰謀、国家の転覆、
殺人、どん底からリーダーになるまで、
一万二千光年の彼方、
そんなものを3分とか5分で語る。
同じ時間で味わえば、
スケールが大きい方がたくさん動くから、
ダイナミックである。
それに比べて、
等身大が歩く距離はコンビニまでだ。
どちらが面白いだろう。
等身大で歩くコンビニは、
本当の世界だけど小さな幸せしかない。
とてもリアルだけど、
それは音楽を聞かなくても手に入れられる。
一方国家転覆のスケールは、
その音楽でしか手に入らないダイナミズムがある。
嘘か真かはおいといて、
それを信じる限りにおいては、
ふつうの人生では決して手に入らない、
快楽や絶望やロマンがある。
どちらが面白いだろう?
どっちかしか取れないなら、
あなたはどっちを取るか?
僕は後者だ。
フィクションなんだから、
フィクションがなくたって手に入れられる世界を描いても、
意味がないと思う。
フィクションでしか手に入れられない世界を、
ものすごく面白く作ったほうが、
面白いに決まってるじゃないか。
歌の話だけど、
これは物語でも同じだ。
好きな子と5分多く話せた幸せを描くのか、
国家転覆を描くのかだ。
勿論食べ物と同じで、
たまには等身大のフィクションも欲しくなるよ。
スケールの大きいフィクションは胸焼けするときもある。
(たとえば海外ドラマは摂取がしんどい時あるよね)
でも体調万全で、
頭を殴られたような衝撃が欲しい時に、
等身大のものなんて見てられない。
等身大では物足りない。
人は架空の娯楽に何をもとめるのか。
自分の人生じゃ経験できないことだと思う。
それを、
嘘くさくなく、まるで本当にあるかのように書くのが、
シナリオである。
等身大?
人生生きとけや。
2021年04月11日
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