2021年04月11日

等身大

リアリティの話を別の角度から見てみよう。

たとえば音楽。
壮大なオペラに比べて、
JPOPは「等身大のじぶん」を歌うようになった。


それはスケールダウンである。

等身大のことを事細かに歌えはするが、
等身大の範囲までしか歌えない。

3分や5分で歌える範囲は、
等身大が歩いて行ける距離までだ。

一方、
オペラ、あるいはビジュアル系バンドなどの、
「作り込まれたフィクション世界」では、
もっと大きな空間と時間を相手にする。

等身大?
そんなものではない。
一族の陰謀、国家の転覆、
殺人、どん底からリーダーになるまで、
一万二千光年の彼方、
そんなものを3分とか5分で語る。

同じ時間で味わえば、
スケールが大きい方がたくさん動くから、
ダイナミックである。

それに比べて、
等身大が歩く距離はコンビニまでだ。

どちらが面白いだろう。

等身大で歩くコンビニは、
本当の世界だけど小さな幸せしかない。
とてもリアルだけど、
それは音楽を聞かなくても手に入れられる。

一方国家転覆のスケールは、
その音楽でしか手に入らないダイナミズムがある。
嘘か真かはおいといて、
それを信じる限りにおいては、
ふつうの人生では決して手に入らない、
快楽や絶望やロマンがある。

どちらが面白いだろう?


どっちかしか取れないなら、
あなたはどっちを取るか?

僕は後者だ。


フィクションなんだから、
フィクションがなくたって手に入れられる世界を描いても、
意味がないと思う。
フィクションでしか手に入れられない世界を、
ものすごく面白く作ったほうが、
面白いに決まってるじゃないか。

歌の話だけど、
これは物語でも同じだ。

好きな子と5分多く話せた幸せを描くのか、
国家転覆を描くのかだ。

勿論食べ物と同じで、
たまには等身大のフィクションも欲しくなるよ。
スケールの大きいフィクションは胸焼けするときもある。
(たとえば海外ドラマは摂取がしんどい時あるよね)

でも体調万全で、
頭を殴られたような衝撃が欲しい時に、
等身大のものなんて見てられない。
等身大では物足りない。

人は架空の娯楽に何をもとめるのか。
自分の人生じゃ経験できないことだと思う。

それを、
嘘くさくなく、まるで本当にあるかのように書くのが、
シナリオである。


等身大?
人生生きとけや。
posted by おおおかとしひこ at 00:08| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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