2021年04月16日

映画になりそうな風景

というのは沢山ある。
しかしそれらが全部映画になるわけではない。
なぜだろう?

あるいは、
映画になる風景と、
映画になりそうなのに、結局はならなかった風景は、
何が違うのだろう?


「映画になりそうな風景」が、
なにかしらの「設定」を含むからだと僕は思う。

たとえば、
「伝説の歌手がここから人気が出た、
ストリートライブの、落書きだらけの場所」
で考えようか。

それだけで何か新しい物語が生まれそうな状況だ。
上京してきた女の子が、
そこでストリートダンスを始めるのだろうか。
みんなが集まる場所なのだろうか。
それともそこが取り壊されてしまう、
というところからスタートするのだろうか。
何も知らずはじめてそこで出会った男女が、
偶然その歌手のファンで、みたいな話だろうか。

色々なパターンを妄想できるよね。
これが「映画が生まれそうな場所」の魅力だ。
汚くて、ペイントの落書きだらけで、
思ったより狭くて、
でもステージに立つとお客がみんな見えるのだろう。
信号機や近所のネオンの光がちょうど良い照明になるかもだ。

で?

そこから話を繋げられる?

これも「二幕が書けない」という現象と同じだね。
出だし(一幕)は面白そうなのに、
その続きが思いつかないよね。

それは、
その風景が、設定だからである。
設定とは過去のことである。
過去はある程度現在に影響を及ぼすが、
未来に何をするかは決めない。

そして、「次に(未来に)何をするかの目的を持つ」
ことがストーリーだ。
目的は過去にはないのだ。
未来にあるのである。

だから、
「映画になりそうな風景=過去の設定」は、
過去の設定が必要な時には有用だが、
その過去の設定を一回使ったら消費されて0になる。
オープニングの例を先程いくつか書いてみたが、
その過去を消費したから、
残弾0の状態になったというわけ。

よくある誤ちは、
じゃあ残弾を増やそうと思い、
「そのステージでその歌手は恋人と出会った」などの、
「(過去の)追加設定」をしてしまうことだ。

これは過去から借りたものに過ぎず、
また残弾0になったら同じことの繰り返しだ。

そうではなく、過去から引っ張るのではなく、
現在や未来をつくるのである。

すなわち、
「ここを取り壊そうとしているのは、
ライバルのレコード会社である」とか、
「演劇スペースとして活用したが、
ミュージシャンお断りにされた」とか、
「このステージで一ヶ月後オーディションがある」
とかだ。

つまり、過去の設定ではなく、
現在に事件を起こすのである。

この現在がない限り、
「○○をしなければならない」
という現在(未来)の焦点は発生しない。
だから設定を食いつぶした時点で詰まるのだ。
詰まらないためには、
焦点を過去ではなく、
現在の事件や、
未来の目的に合わせなければならない。

そして、「映画になりそうな風景」の魔力が、
今思いつくどんなパターンより魅力的なので、
それに負けて、
過去より魅力的な現在や未来の提示ができなくなりがちで、
結局は物語化できないのである。


「この映画になりそうな風景から、
一本のシナリオをつくってください」
というどんな問題でも、
「そこから想像される感じ(クオリア?)」を、
超えることができない。
そこに存在しないものは、
存在する具体物より勝るからである。

小説ならば存在しないものを書けるかもしれないが、
シナリオは具体物による表現だ。
だから、
想像した感じに勝ててない、となってしまいがち。


つまり、
このような魔力に手を出すべきではない。

では、本来の映画になる風景とはどういうものか?

僕は、
「普通に話を書きなさい。
その撮影場所が、のちのち映画になる風景になる」
と考える派である。

たとえば、
「ビフォーサンライズ」は、
男と女が出会い、朝まで話す話だが、
その話したどうでもいいベンチや公園が、
朝の光を浴びて特別な場所になる。

風景を映画に変えるのは、ストーリーなのだ。

「そのストーリーのあった場所」
という思い入れこそが、
「映画になる風景」だ。


日常においてもそういうことがよくある。
彼女に初めて会った場所、
プロポーズした場所、
初めて一人暮らししたアパートなど、
「鮮烈な思い出」は、場所を物語に変えるのだ。

たとえゲーセンみたいな、なんてことない場所でだって、
学校を抜け出して遊んでたら、
あいつもたまたまここに来てて、
することないからずっと対戦してた、
ってだけでも、
その対戦台のある場所は映画になる。
そこにスポットライトを一台当てればね。

問題は場所の美しさではない。
ストーリーだ。
その場所にスポットを当てるのは、
場所そのものではなくストーリーである。


場所はある種のアイデアを連れてくるが、
それは過去にすぎない。
現在や未来に新しいことを起こせない限り、
「映画になりそうなのに、ならなかった風景で、
でもなんか勿体ない」
止まりだろう。
posted by おおおかとしひこ at 00:02| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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