というのは沢山ある。
しかしそれらが全部映画になるわけではない。
なぜだろう?
あるいは、
映画になる風景と、
映画になりそうなのに、結局はならなかった風景は、
何が違うのだろう?
「映画になりそうな風景」が、
なにかしらの「設定」を含むからだと僕は思う。
たとえば、
「伝説の歌手がここから人気が出た、
ストリートライブの、落書きだらけの場所」
で考えようか。
それだけで何か新しい物語が生まれそうな状況だ。
上京してきた女の子が、
そこでストリートダンスを始めるのだろうか。
みんなが集まる場所なのだろうか。
それともそこが取り壊されてしまう、
というところからスタートするのだろうか。
何も知らずはじめてそこで出会った男女が、
偶然その歌手のファンで、みたいな話だろうか。
色々なパターンを妄想できるよね。
これが「映画が生まれそうな場所」の魅力だ。
汚くて、ペイントの落書きだらけで、
思ったより狭くて、
でもステージに立つとお客がみんな見えるのだろう。
信号機や近所のネオンの光がちょうど良い照明になるかもだ。
で?
そこから話を繋げられる?
これも「二幕が書けない」という現象と同じだね。
出だし(一幕)は面白そうなのに、
その続きが思いつかないよね。
それは、
その風景が、設定だからである。
設定とは過去のことである。
過去はある程度現在に影響を及ぼすが、
未来に何をするかは決めない。
そして、「次に(未来に)何をするかの目的を持つ」
ことがストーリーだ。
目的は過去にはないのだ。
未来にあるのである。
だから、
「映画になりそうな風景=過去の設定」は、
過去の設定が必要な時には有用だが、
その過去の設定を一回使ったら消費されて0になる。
オープニングの例を先程いくつか書いてみたが、
その過去を消費したから、
残弾0の状態になったというわけ。
よくある誤ちは、
じゃあ残弾を増やそうと思い、
「そのステージでその歌手は恋人と出会った」などの、
「(過去の)追加設定」をしてしまうことだ。
これは過去から借りたものに過ぎず、
また残弾0になったら同じことの繰り返しだ。
そうではなく、過去から引っ張るのではなく、
現在や未来をつくるのである。
すなわち、
「ここを取り壊そうとしているのは、
ライバルのレコード会社である」とか、
「演劇スペースとして活用したが、
ミュージシャンお断りにされた」とか、
「このステージで一ヶ月後オーディションがある」
とかだ。
つまり、過去の設定ではなく、
現在に事件を起こすのである。
この現在がない限り、
「○○をしなければならない」
という現在(未来)の焦点は発生しない。
だから設定を食いつぶした時点で詰まるのだ。
詰まらないためには、
焦点を過去ではなく、
現在の事件や、
未来の目的に合わせなければならない。
そして、「映画になりそうな風景」の魔力が、
今思いつくどんなパターンより魅力的なので、
それに負けて、
過去より魅力的な現在や未来の提示ができなくなりがちで、
結局は物語化できないのである。
「この映画になりそうな風景から、
一本のシナリオをつくってください」
というどんな問題でも、
「そこから想像される感じ(クオリア?)」を、
超えることができない。
そこに存在しないものは、
存在する具体物より勝るからである。
小説ならば存在しないものを書けるかもしれないが、
シナリオは具体物による表現だ。
だから、
想像した感じに勝ててない、となってしまいがち。
つまり、
このような魔力に手を出すべきではない。
では、本来の映画になる風景とはどういうものか?
僕は、
「普通に話を書きなさい。
その撮影場所が、のちのち映画になる風景になる」
と考える派である。
たとえば、
「ビフォーサンライズ」は、
男と女が出会い、朝まで話す話だが、
その話したどうでもいいベンチや公園が、
朝の光を浴びて特別な場所になる。
風景を映画に変えるのは、ストーリーなのだ。
「そのストーリーのあった場所」
という思い入れこそが、
「映画になる風景」だ。
日常においてもそういうことがよくある。
彼女に初めて会った場所、
プロポーズした場所、
初めて一人暮らししたアパートなど、
「鮮烈な思い出」は、場所を物語に変えるのだ。
たとえゲーセンみたいな、なんてことない場所でだって、
学校を抜け出して遊んでたら、
あいつもたまたまここに来てて、
することないからずっと対戦してた、
ってだけでも、
その対戦台のある場所は映画になる。
そこにスポットライトを一台当てればね。
問題は場所の美しさではない。
ストーリーだ。
その場所にスポットを当てるのは、
場所そのものではなくストーリーである。
場所はある種のアイデアを連れてくるが、
それは過去にすぎない。
現在や未来に新しいことを起こせない限り、
「映画になりそうなのに、ならなかった風景で、
でもなんか勿体ない」
止まりだろう。
2021年04月16日
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