旧新配列の前提→欠点を潰す
新新配列の前提→長所を伸ばしてその分欠点は多少残る
のようなものだとすると、
旧新配列の前提になっているのは、
「欠点を潰しさえすれば、あとは指を均一化すればよい」
ではないだろうか?
つまり、
「優れたピアニストのようになれば、
どんな文章でも自在に高速タイピングできる。
その時に足を引っ張る要素を潰しておく」
が無意識にあると思う。
車を走らせるのに、道路の凸凹を均しておこう、
という考え方かもしれない。
あとはいくらでもエンジンやシャーシに金かけてください、
みたいなことか。
一方薙刀式の前提には、
「人は鍛えられないし、
鍛えても多少でしかなく、
ピアニストにはなれない」
だと思った。
車は変わらないと考える。
凸凹はある程度ならしとくけど、
均一にできるわけがないから、
加速するところは思い切り加速できるコースづくりをするよ、
という感じかな。
「タイピングを鍛える」
という行為には、
指の連携を高めたり、
正確性を高めたり、
認識力を高めたり、
持続力を高めたりなどの、
長い鍛える期間があるように思う。
それで仮に、
タイピング能力が何もしてない時より10倍に上がるとしよう。
旧新配列は、それを無意識に前提としているのではないかと感じた。
一方薙刀式は、ていうか僕は、
「それをする必要はない」と考える。
もちろんある程度鍛えることは大事だが、
「それより文章力を鍛える方が99割だろ」
としか考えていない。
タイピングに使う時間が、
人生を圧迫するべきでないと考えている。
10倍にアップするまで文章を書いちゃいけないのか?
そんなことないよね。
10倍にアップしたからといって、
10倍量を書いてる?
そんな人もそんなにいないし、
そんなに鍛えることの意味ってなんだろうね。
自己満足かな。それなら仕方がないけどね。笑
薙刀式はエルゴノミクスである。
つまりエルゴノミクスの前提は、
「人は凸凹の状態がデフォルト」だ。
人差し指ほど小指は器用じゃないし、
親指は横を向いている。
左手は右手より劣るし、
中指はほかの指より長い。
手首はまっすぐ平面につけると負担があるし、
そもそも長時間座ることに人類は向いていない。
タイパーやピアニストは、
指番号を使う。1番から0(10)番。
数字ってことは、それらが均等であることを前提としている。
僕はこれに馴染めない。
左薬指は、右人差し指の1/100以下の実力だ。
全てがクオリティの揃った高い能力ならば、
欠点のない滑らかな接続を、
無限に縮めて行けるのかもしれない。
だがエルゴノミクスの前提は、
「人の凸凹を道具が吸収して、
さも均等に使えるようにする」
ではないかと思う。
薙刀式は、だから、論理的にエルゴノミクスなのだ。
僕が自作キーボードで、
物理的なエルゴノミクスに進むのも、
それが理由なのかも知れない。
僕はピアニストになれないし、
そこまで鍛える情熱も時間も才能もない。
ただ文章を書きたい欲や熱は、
抜きん出てあるわけだ。
だから、道具をつくろうとしているだけで、
自分を鍛えるくらいなら、
道具で得をしようとしている。
道具で欠点をカバーしようとしている。
つまりはものぐさなのだろう。
左薬指が苦手なら、鍛えるんじゃなくて4%に下げる。
小指が苦手なら、鍛えるんじゃなくて3%に下げる。
人差し指と中指が得意なら、
その連接を馬鹿みたいに増やしてアルペジオを組む。
たくさんのキーを使えないなら30キーにしちゃう。
親指の左右盲があるならセンターシフトにしちゃう。
機能キーが遠いならホームポジションにしちゃう。
同時押しが下手ならコントロールできる人差し指同時押しに限定する。
記憶力がないなら、覚えるんじゃなくて同置にしてしまう。
重たいキーで疲れるなら、鍛えるのではなく軽くする。
左右非対称を克服するのではなく、直感的な格子配列にする。
指が平面になるように指を調整するのではなく、
指の動く3D曲線に合わせたキーキャップを作ってしまう。
「俺は文章を考えるのに苦労するから、
道具が苦労しろ」
と僕は言っているわけだ。
どうすれば効率があがるか?
という問いに対して、
対照的なアプローチなんだな、
と、俯瞰してみてわかった。
タイパーやピアニストの努力は否定しないが、
僕は否定するね。
もっとマシな道具を使えばいいんだよ。
「それをするのにそれしかない」
時代ではないのだ。
どちらが初心者むきだろう?
どちらが鍛える人向きだろう?
ぼくは、書くことについてはプロだけど、
キーボードについてはプロではない人を、
対象にしているのだろう。
2021年04月16日
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