色んな答えがあると思う。
脚本論的には「ストーリーであるから」と期待できるかも知れないが、
ストーリーのない音楽もある。
なぜ音楽は心地よいのか?
これを思ったのは、
コンゴのバンド、Fulu Mizikiの動画を見ていた時だ。
廃材を使った楽器と、
廃材を組み合わせた奇抜な衣装で、
今ブレイク?中である。
僕が最初に見たのはこの動画だけど、
https://www.youtube.com/watch?v=Ri2oK4gApMU
それ以前の、
奇抜な衣装になる前のこっちの動画の方が、
心に来るなあと思った。
https://www.youtube.com/watch?v=xbAirF4Ofsg
アフリカの民族音楽に近いと思う。
打楽器と弦と、声。
この感じに心を打たれ、
「なぜこれを心地よいと思うのか?」
をずっと考えていた。
人間の原始的な何かが呼び覚まされているのは確実だ。
ストーリーでも、
原始的なものは強いのであった。
原始的だから強いだけじゃまだ足りない。
なぜ原始的なものは強いのか?
原始的なものとそうでないものは何が違うのか?
ということが気になっていた。
つまり、
原始的で、強いものは、
そうでないのと何が違うのか?
という問いだ。
パーツが少なく、限られたものの組み合わせ、
というのはあるだろう。
現代的で複雑なものよりも、
シンプルなもののほうが要素が少なく、
想像の余地があるのは明らかだ。
でもそれだけじゃなさそうだ。
なぜ彼らはあんなに楽しそうなのだろう?
なぜ彼らは誇りを持って演奏するのだろう?
僕は、彼らが、
「それぞれの役割を全うすることで、
集団として機能して、
それが集団としての自己承認になっている」
からではないかと思った。
つまり、
個人個人に、
誰ともかぶってない役割が与えられていて、
それらが揃った時に、
ある集団が現れてそれが機能している、
そこに集団としてのアイデンティティが生まれ、
個人がそこで承認されている感じが、
心地よいのではないかと思った。
つまり、「部族」として機能していると思ったのだ。
彼らは部族の中の、
誰ともかぶってない役割を懸命に果たす。
よく見ると単純なフレーズの打楽器ばかりだが、
それが集団に編成されたとき、
うねりを生じている。
個性と個性が個性を承認するわけだ。
そして、合唱することで、
「我々は一である」の心地よさを再確認する。
ざっくりいうと、社会が機能していることの心地よさだと思う。
チームとして、でもいいし、
集団として、でもいい。
理想的な社会がここにあるから、
気持ちいいのではないかと思ったのだ。
心地よいシナリオというのは、
このようなものである。
それぞれのキャラクターには、
かぶっている役割があるべきではない。
それぞれがそれぞれの役割を全うした結果、
集団としての音楽が完成する。
個人個人でやるべきことがわかっていて、
それを全力でやった結果、
「一」になる。
心地よい音楽と、心地よいストーリーのシナリオは、
「心地よく機能している集団」という、
共通点があると思う。
最近のストーリーは、
個人に切り離されたものが多いように思う。
ネットで分断されて、
個人のやることが増えてしまって、
集団として機能する機会も減っているように思う。
新人の書くシナリオは、
主人公一点ばりになっていて、
社会(集団)全体に目がいっていないものが多い。
それは多分心地よくない。
このコンゴのバンドのようになっていないのだ。
あるいは、
「演奏中の、バンドメンバー同士のアイコンタクトにグッと来る」
というやつも良くあるよね。
「同じ目的(この場合演奏の成功)を持った仲間の、
人間関係」
という意味で、これはストーリー的だ。
なぜ音楽は心地よいのか?
人生がうまくいっている時の心地よさに、
似ているからではないか?
2021年04月22日
この記事へのコメント
コメントを書く