力を抜くこと、かも知れない。
小説「てんぐ探偵」の第七章の第一稿をタイプし終えた。
第97話まで終わった。
僕は小説をすべて手書きで書いていて、
部屋の隅にそれを積んでいる。
それがすでに出窓の高さを超えているのに気づいた。
脚本家の世界には、
(手書き原稿かつ原稿用紙で)
「背の高さを越えるまで書けたらデビュー」
という伝説がある。
僕はA4一枚の白紙に表裏書き、
かつ表におおむね800字書くので、
一枚あたり原稿用紙4枚分書く。
小説に関しては、まあ背の高さを超えたと考えてもいいかな。
20年前、コピーライターの世界でも、
「没コピーを段ボール二箱書けたら一人前」
という伝説があった。
(A4一枚に1コピーというのがコピーライターの習慣なので、
そんなに大した量じゃないと思うが)
数稽古はどこの世界でもある。
絵だって一万時間やれという世界だ。
第一には、その情熱のないやつをふるい落とすためにある。
グダグダ理屈を捏ねるよりも、
まずやってみろよという世界だからだ。
我々は後方の評論家ではなく、
最前線のダンサーである。
まずやれなければ意味がない。
また数稽古は、
色々なパターンを出せるか、ということを問う。
最初からパターンを持っているやつはいない。
実戦や習作を重ねているうちに、編み出せ、対応しろ、
ということである。
「もう出ない」とヘロヘロになった時がチャンスだ。
自分の持ちパターンを全て尽くした時だからだ。
ここで新パターンを作らないと死ぬ、
という状況に追い込まれて、
突破し続けた(あるいは爆死した、試行錯誤した)記録が、
段ボール二箱や背の高さになるわけである。
鍛えられてないはずがない。
持ちネタを消費するのを恐れて、
数を書かないやつがいる。
そいつはいつ鍛えるのだろう?
そのネタ4万字を書く間に、
書くやつは背の高さ分試行錯誤しているのだ。
どちらが対応力があり、こなれた文章を書くだろう?
また、数稽古は、肩の力を抜ける。
どうとでも対応できるわ、してきたわという経験が、
自負や自信になる。
初めて書く文章は、誰もむごいものだ。
初めて書いた6年くらい前の第一話は、
やはり下手だったと今なら思う。
でもその時はベストだと思って書いてたのだ。
なぜ初めて書く文章がむごいかというと、
肩の力がガチガチに入っているからである。
初めて女の子とデートするときに、
ずっと緊張して肩に力が入ってる人といて、
楽しいはずがない。
やりちんほど、リラックスするべきところは抜き、
いざというところだけ決めてくるだろう。
剣の達人ほど、力を抜いて動き、
人を切る瞬間だけ剛体になるだろう。
それと同じだ。
数稽古は、ガチガチになる心を、
肩の力が抜けた状態にするまでやるべきだ。
「いくらでも書けるよ。次何する?」
くらいの状態になることが、
プロの第一歩に必要だと僕は思う。
やりちんだって、
「いくらでもどんな女の子でも楽しませられるよ。何しようか?」
の状態に常にいるわけだろう。
「渾身のネタで10年温めて、
初めて書くのだが、これでダメだったら俺は死ぬ」
なんてガチガチのものが、
面白いわけがない。
童貞のデートだよねそれは。
わりとどうにでもなる。
その境地に至るまで、
数稽古をすることだ。
長編はキツいしダメだった時の反動がデカイから、
短編を100本1000本書くといい。
僕は「おわり」を書いた回数が、
人を鍛えると思っている。
5回より100回の方が鍛えられてるし、
100回より1万回の方が鍛えられてると思う。
肩の力が抜け始めてからが本番。
その先にしか、楽しいランデブーはないよね。
2021年04月19日
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