物語はすべからくフィクションである。
つまり嘘だ。
しかし、それが流れている間はほんものである。
それがほんとうだと作者が信じない限り、
ほんものの強度は落ちる。
信じるといっても、
ただ強く念じればいいというわけではない。
もしそれがほんとうだと信じるならば、
あらゆる角度からの検証がすべて妥当であり、
ほんものと信じるに足るほどの、
すべてが考えられている、
という意味での強度である。
現実で考えよう。
「あの子が俺を好きだ」がほんとうであるとはどういうことか。
俺の○○や○○が好きだ、
というだけではほんとうっぽくないよね。
いつそれを好きだと思ったのか、
なぜ他のやつじゃなくて俺なのか、
どんな場面でどう思ったから好きになったのか、
そもそも好きになってどうしたいのか、
他の人には言ったのか、
秘めた想いはどれくらい前からなのか、
実は罰ゲームなんじゃないか、
今その一瞬だけなんじゃないか、
そんな、
あらゆる疑いを跳ね除けるディテールがあったとき、
「どうやらそれは信じるに足ることである」
と思うものである。
つまり、
「それが本当かどうか」を訝るとき、
人はあらゆる角度から見て、
矛盾点を探そうとする。
「その子は俺を好きだというが、俺のことを分かってないじゃないか」とか、
「俺を好きになった時のエピソードに記憶違いがあり、
そのエピソードの真実性が疑わしい」とか、
「女子が他の女子に相談してないのはへんだ」とか、
どこかに穴がないか疑うものである。
犯罪の立証も同様である。
この人が犯人であるのかそうでないのか、
あらゆる角度から色々やってみて、
矛盾点が見つかるかどうかを常にチェックする。
真実は矛盾していない。
矛盾するなら偽である。
偽とは矛盾のことであり、
矛盾のない完全が真実だ。
真偽と矛盾は必要十分条件だ。
現実においてもそうなのだから、
物語においてもそれを求める。
架空なのはわかっているが、
矛盾点が見つかった時点で、
「それを真実だと錯覚させるにふさわしくないもの」
という烙印を押される。
あら探ししたいのではない。
それを真実だと思いたいからこそ、
無矛盾であることを確認したいのである。
そうした無矛盾の体系は、
強度のある体系である。
つまり、あらゆる角度から見ても大丈夫だし、
隠された真実ふくめて矛盾していない。
あなたは、これを構築しなければならない。
そのためには、綿密な態度が必要である。
あらゆる角度から見て検証したり、
「これは矛盾では?」とわざと問うてみて、
「いやちがう、○○が○○だから大丈夫」
のようにあらゆる反論、
理論武装ができているべきだ。
「それがほんとうだと言うならば、
そのように十分に綿密に考えられているべき」
ということだ。
それがほんとうだと作者が信じる、とは、
ただ強く念じるのではない。
ほんとうだと信じるならば、
あらゆる角度から突っ込んでもすべて返せるように、
無矛盾な体系が綿密に作られている、
ということを意味する。
信じるからディテールが詰められている。
信じるからどこから切っても矛盾がない。
ただ信じるだけは主観だが、
作者が信じるものは、
あらゆる客観にさらされた上での、
強度のことである。
なにもせず信じても、ほんとうらしさは生まれない。
手を動かし、足を動かし、頭を動かした量が、
真実らしさの強度を増すだろう。
作者はその架空を、主観的にほんとうのことだと信じている。
だから熱く、しらけが起こらず、滑らない。
そして、信じているがゆえに、
あらゆる角度から綿密に考えられていて、
それが嘘だと疑う余地がないくらいに、
どう突っ込んでも返せる程度に客観的に作り込まれている。
念じただけでほんとうっぽくなるなら簡単だが、
脚本というのは手と脚と頭で書くものである。
具体的に強度をあげるしかない。
2021年04月29日
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