をごりゅごさんが語っているのが面白い。
音声入力と薙刀式。入力方式の違いがどう変わるのか
https://anchor.fm/goryugocom/episodes/641-ev9ae4
ポイントは密度。
情報量/文字数みたいなことだと思う。
「言われたもの」としての音声の密度と、
「書かれたもの」としての文字の密度では、
文字の方が濃いということだろう。
同じ「考えをアウトプットする」だとしても、
メディアとしての音声と文字では、
要求する密度が違う、
ということだと思う。
つまり、言うようには書かれないし、
書かれるようには言えない。
昔糸井重里が、
「吉本隆明の書いた本はめちゃくちゃ難しいが、
講演会の録音を聞くと、
何が言いたかったのかわかる」
と言う話をしていて、
そのことと関係していると思う。
どんな複雑な文章や思考でも、
言う時は平易になる。
だから「教える/教わる」は、言うものを聞く方が簡単なのかも知れない。
逆に、
文字に残すということは、
「言う以上に圧縮された、
書かれる日本語を駆使する」ことになるのかも知れない。
言文一致運動とは、異なる現象がここにあるように思う。
「文章は、言われるように書くべき」
とする考え方があるものの、
「とはいえ音声入力レベルだと、中身が薄くて物足りない」
が、一方の現実としてあるということだろう。
これは日本語特有なのかな。
漢字などで圧縮するからだろうか。
それとも「耳で聞く論理構造」と、
「目で見る論理構造」だと、後者の方が複雑でも耐えられるからだろうか。
英語なんかでは違うのだろうか。
科学技術用語などは、
音声でのやり取りよりも本や論文でのやり取りが多いから、
目で見る言葉としてしか考えられてないかも知れないね。
小説のセリフをそのまま映画で言うと寒い現象も、
それを逆から見ているような気がする。
言文一致運動はある程度までは正しいけど、
聞く言葉と見る言葉は、
違うジャンルである、
という領域がやはりあるように思う。
見る言葉のほうが、
はるかに深くて広くて濃くできる、
ということだと思われる。
聞く言葉は、一過性で消えていくからだろうね。
僕は、言うようには書かない。
ことばづらは言ってるような言葉ではあるが、
これをそのまま言うと把握する前に次を言うから、
もっと平易に言わざるを得ないようになると思う。
書くことは、言うよりも圧縮されている。
ざっくりいえばそういうことだろうか。
薙刀式はそういう意味で、
言う言葉より、
書く言葉を書くのに向いている配列だ。
考えながら書くのに向いている、
とごりゅごさんも言ってたので、
その実感はあるのだと思われる。
「単語だけだと大したことないけど、
文章だと良い」を示す例文を作った方がいいな。
弁慶は、薙刀を縦横無尽に振るった。
ーー○○ーー○ーーーー○ーー○○○
ーが話題の語、○が繋ぎの語にあたる。
ーはまあ普通に打つし、
○単独だけだとーと変わらない(いい位置のキーではある)。
だが○○と連続するところで、
アルペジオなどの速くて繋がる運指を堪能できる。
もっとエモい例文がほしいな…考えよ…
光るClaw44で薙刀式が打たれている様を、
見たいもんですなあ。
Claw44は比較的組み上げるのが楽なキットの部類のはずなので、
がんばってください。
meishi2という遊舎で打ってる入門用4キーキーボードを組むと、
半田からキーマップを組むまで一通りの体験ができますよ。
言文一致、みたいな歴史から文章は考えたことはなく、そういえばかつては言文一致ではなかったんですよね。
そして今もある程度までしか言文一致ではないし、自分はそういう書き言葉だから読みやすい「文」を書きたいのかもな、と気づきました。
日本語の変革の歴史はいくつかの節目があったと思います。
現代に直結してるのは、
明治期の言文一致運動と標準語教育でしょうか。
でも真の一致ではなくて、
やっぱ違うんじゃない?とみんな薄々気づいてるのでは、
と思っています。
PC入力の歴史だけ見ても何度か変革があったと思いますが、
その度に「やっぱいう言葉と書く言葉は別なのでは?」
とする派と、
「喋るように書こう」とする派がいるように感じますね。
(とくに対立してるわけではないだろうけど)
脳内発声の有り無しも関係してそうな気がしています。