多くのタイピングの教科書では、
「遅くてもいいから、間違えず打てるようにしよう」と教える。
BSで消して、正しいのを打ち直すのは、
ゆっくり確実に打つより遅いからだ。
だけど創作文ではどうだろう。
僕は、「間違えてでも速く打つべき」と考えている。
そもそも、
タイピングを早く合理的にしたい理由は、
「頭の中のものが蒸発する前に、
文字として書き留めたい」であった。
間違えようがあとで修正できるなら、
速い方が蒸発を防げる。
もちろん誤字率0が理想だろうけど、
誤字まくりであろうがなんだろうが、
形にすることが速いべきだと、
僕は考えている。
プロトタイピングとおなじだ。
プロトタイプを先につくるときは、
コストが安く、
すぐつくれて、
試行錯誤が容易で、
アイデアを色々試せるようなものを、
何個もつくるべきである。
「書くことは書き直すこと」
wrting is rewriting.
という格言もある。
まずはアイデアを書き留められるかどうかが勝負だ。
正確性にこだわるあまり、
途中でなんだっけ、となるよりましだと僕は考える。
だから、
薙刀式では、右人差し指上段にBSがあるし、
編集モードで訂正編集しやすいようにつくっている。
文は可塑性がある。
最初に書いた文字が、
完成したものに一文字も残ってないなんてことは、
プロなら普通にあることだ。
書くことは、
一筆書きで書き終えて終わりではなく、
その上から油絵のように何度も上書きして、
煮詰めていくものである。
そのためには、
間違えようが最速で書けないと、
出汁のベースがないのと同じだ。
タイピングは、
もともとは手書きの清書として始まったから、
エラー率が0に限りなく近づけるべきだ。
ていうかエラー0でようやく評価のスタートかもしれない。
間違えて写した文など論外だろう。
でも、
もはや清書タイピングの時代ではないと僕は思う。
これまでの配列評価やタイピング評価は、
清書タイピングの古い基準で語られすぎたと思う。
(もっとも、あるメソッドを習得するのに、
「間違えずにやりましょう」は妥当なマスターの仕方ではあるが)
創作文としてタイピングするなら、
どんな形でもいいから、
脳内のアイデアを記すことの方が優先だ。
あとで正しい形に整えればいいだけのこと。
つまり、
書くことには二種類ある。
アイデアを記すことと、
正確に書くこと(誤字脱字、言葉遣いや原稿の使い方も含めて)だ。
従来の(清書からの伝統的)タイピングは、
後者の能力の追求でしかなかった。
僕は、間違えずに打つ道具や能力が欲しいのではない。
書き留め、試行錯誤できる道具や能力が欲しい。
アナログにおいてはペンと紙がそれだ。
デジタルにおいては、今のところ薙刀式が一番使える。
(個人差があります)
2021年05月17日
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