ずっと違和感があったことが、ようやく言葉になった。
キーボード、19mmは大雑把すぎる。
だって僕は1mmに線5本引ける指を持ってるので。
僕は昔漫画家を目指してたので、
Gペンやら丸ペンやらで線を書いていた。
万年筆と基本同じの、金属板バネと同じ反力のペンだ。
漫画家の修行のひとつに、
「1mmの幅の中に何本細かい線を引けるか?」
というのがある。
僕はボールペンでも3〜4本、
丸ペンなら5本は余裕。
調子のいい時は7〜8本行けた。
つまり指の精度は、
5本としても0.2mmである。
もちろんこれは右人差し指の精度で、
左手なんかはメタメタだろう。
3mmずつくらいしか引けないかなあ。
また、線に関する精度だから、あらゆる方向の精度ではない。
線というのは手首の回転を使うので、
回転しない方向、
右手でいうと、左上と右下を結ぶ方向には線の精度は落ちる。
漫画家が原稿用紙を回転させて絵を描くのは、
これが理由だ。
ペンを絵筆に持ち替えて水彩やアクリルをやっても、
あるいはボールペンで小説を書いたとしても、
この手の感覚は生きている。
字を書くことでいうと、
高々1cm角の大きさで一文字を書くわけで、
ここに10画やそれ以上の漢字を書くわけだ。
(「鬱」とかなら2cm角くらいになるかな)
つまり、僕の右手はそれくらいの精度のなかで闘っている。
ふとキーボードを打っている手を見た。
どんなに精度をあげても、
1U=19mmの精度でしかキーを叩かない。
JとYはその√2倍の距離もある。
ミリに5本の精度に比べて、
キーボードは大雑把すぎる道具なのだ。
もちろん、
手書きではまったく同じ線が引けない。
だから毎度毎度違うフォントになる。
その曖昧さを許容しながら人類は文化を紡いできた。
0.2mmの精度といいながら、
実際に書かれる文字はもっと曖昧ではある。
逆にキーボードでは、
キーとキーの間を打ってはいけない。
19mmのうちどれだけがホットスポットかはわからないが、
DSAだと12mm角くらいのトップ面に指を当てないとオンではない。
精度は繊細なのに仕上がりは大雑把で良い手書き。
精度は大雑把なのに押す場所は正確でないといけないキーボード。
僕のキーボードに対する忌避感は、
その真逆さにあるのかもしれない。
つまり、
「手の感覚からすれば大雑把な距離にスイッチを並べて、
それらを順番に正確に押さないとアウト」
という機構そのものが、
僕の字を書く感覚の真逆のような気がしてきた。
僕は発明家ではないから、
「じゃあその字を書く感覚で使える、
新しいデジタル入力機器はあるのか」
に関してのアイデアはない。
手書き入力が、続け字かつ単語単位でいければあり得るのかなあ。
だったら漢直だしいいよね。
僕の癖字の学習にどれくらいかかるかは分からないが。
そうか、キーボードは19mmも運動しないと打てないのか。
僕の字の2文字分も移動してるんだ。
あまりにも大雑把だ。
外人の文字は結構デカかった記憶がある。
彼らはその精度でキーボードを設計したはずだ。
それをそのまま使ってる日本人は、
やはり考えが足りなさすぎると思う。
原稿用紙のマス目を埋めてゆく習慣は印刷のための近代のもので、
日本語とはそもそも筆で巻物に書いていくように発達したはずだ。
一文字一文字は異なる大きさであり、
ことばを繋げて書くのが日本語の本質だよなあ。
その連続体をフーリエ級数分解みたいにデジタルに分解してるから、
そもそも無理があるんだよな。
精度だけ見て狭ピッチが正解かというとそうではない。
指が太いと16mmが限界で、
手を小さく構える窮屈さがある。
並べたスイッチとは別の機構が、必要な気がしてきた。
薙刀式は、「単語を一筆書きにするような感覚」
で配列を考えてきたが、
5文字7文字あたりを、19mm×そのモーラ打で一筆書きする感覚。
その指の移動感覚が、手書きより今のところたくさんある。
だから手書きに比べて、遅くて疲れる感覚になるのだろう。
僕はこれだけがんばったのに、
まだ手書きにキーボードは追い付いていない感覚がある。
なんとかならぬか。原理的に無理なのか。
2021年05月20日
この記事へのコメント
コメントを書く