2021年05月24日

デフォルメ

現実をそのまま写しても、なかなか表現にはたどり着けない。
どこかを強調して、どこかを省略する。
これをデフォルメという。

以下の画像のデフォルメについて詳しく見てみよう。


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ボケてからの画像なんだけど、四角を埋めることは今はどうでも良くて、
この絵についてだけを考える。

さて、実はこの絵のようには実写じゃ撮れない。
普通に良くある絵のように思えるのだが、
デフォルメが効いている。

等身の問題はここでは置いておくとして、
何がデフォルメが効いてるのだろう?
主に二点ある。

1. ドラミとママの目線
2. テーブルの天面


1. ドラミとママの目線

実写で撮ると、このような目線の合わせ方は不可能だ。
ママはドラミの横後方にいるため、
顔を横に向け、眼球を横目にして、ようやく目が合う。
つまり、正面から見たら顔は横顔になる。
完全に目を合わせるためには、斜め後ろの首筋しか見えず、
体も回転した状態になるのが、
リアルである。

ところがこのデフォルメでは、
ドラミの顔や表情を見せるために、
嘘をついてドラミの顔、体を正面にしている。

3D空間でドラミは前を向いているから、
後方のママと目線を合わせることができない。
にも関わらず、平面の絵上で、
ドラミが眼球を右に向け、ママの方を見ている「ように」
見えるだけのことである。

3D空間では目線があっていないが、
2Dの絵では目が合っているような嘘。
これがデフォルメのひとつである。

こうしたことは、
デフォルメの効いた漫画ほどさかんだ。

全員集合の絵とかでよく使われるね。
一人だけ後ろを向いてたら変だからだ。

これは、芸術の正面性という。
正面を向いている顔が強く、主役であるという考え方だ。
この絵の主役はドラミなのだが、
うしろを向いてると主役でなくなってしまうわけだ。
これは演劇でもよく使われる。
わざわざ正面を向いて喋るのは、
リアルでは変だが、演劇的デフォルメ上は自然である。


2. テーブルの天面

テーブルの天面の見え方は、
三次元空間上とても大事だ。
横から撮ったらテーブルの上が見えなくなり、
テーブルの文脈、
たとえば豪華な夕食、粗末な食事、お茶を楽しんでいる、
などを伝えにくくなる。

だからテーブルの天面を大きく描くには、
カメラはテーブル水平よりもだいぶ上がって、
天面を斜めこちらに見せるように撮るものだ。
(食事系のCMの鉄則)

だが、
この高さから撮ると、
ドラえもんとのび太はこのようには撮れない。
もっと上から見た見え方になる。
それでは「向かい合って座っている」ことがわかりにくいため、
この絵では「カメラが二人の肩の高さに構えたときの見え方」
で描かれている。
もしカメラが二人の肩の高さに構えたら、
ここまでテーブルの天面は見えず、
上下幅はとても小さくなり、
ドラミの洋風趣味であるところの紅茶のハイソな感じが、
表現しづらくなるだろう。
のび太とドラえもんは横顔で描かれているが、
この程度にティーカップが横からの角度になってしまう。


つまりこの絵では、
テーブルのハイソ文脈と、
ドラえもんとのび太は向かい合って座っていることと、
両方を表現するために、
嘘をついた絵になっている。

すなわちデフォルメである。

ちなみに、
もしこれらを合成で作ると、
パースが狂ったおかしな絵になる。
しかし漫画のデフォルメの効いた線では、
実にナチュラルに状況が一発でわかるようになっている。



リアリティはどこまで必要なのか?
表現のためにどこまで嘘をつくべきか?

この絵は演出が入りすぎているだろうか?

リアルならば、ドラミは振り返り、
テーブルの上は見えていないか、ドラえもんとのび太が変な角度になる。

嘘だと思うなら、
実際にテーブルにティーカップを置き、
座らせた人の見え方を、
iPhoneや一眼レフで色々撮ってみるとよい。
レンズもワイドから標準から望遠まで使ってみると、
よくわかると思う。


つまり、この絵一枚で達成していることを示すならば、

状況のヒキ(テーブルの上はよく見えていない)、
テーブル天面のヨリ(紅茶のハイソなセッティング)、
ママのヨリ、
振り返ったドラミのヨリ(切り返し)、

の4カットに割って、いちいち撮影しなければならず、
そのカット割(モンタージュ)をつくることが監督の仕事である。

それをたった一枚の絵に示すことが、
デフォルメの威力ということだ。


手塚治虫や石森章太郎は、
ポンチ絵のマンガにハリウッドアングルのような、
リアリティのある構図を導入したが、
藤子不二雄はこのようなデフォルメの絵にこだわった。

両者がうまく融合するには大友克洋を待たなければならず、
デフォルメは鳥山明へ、
リアルは現代の多くの漫画家へと継承される。

リアルはすごいのかもしれないが、
逆にカメラで撮ってトレースすればいいじゃんと、
あさのいにおのような詰まらない絵作りになっていく。


リアルは必要なのか?
表現こそが必要なのではないか?

表現には色々な要素があるが、
そのうちデフォルメだけを切り取ると、
このような感じだ。

もしこの絵のリアリティの無さに気付いたのなら、
よほどカメラのことに詳しいだろう。
気づかずに自然に見ていたとしたら、
藤子の表現は成功していたということだ。


僕が3Dドラえもんに大反対なのは、
こうした藤子のデフォルメ技法が、
まるで役に立たなくなることになる。
それはドラえもんのシンプルさを削ぐことになり、
本質が変わってしまうと考えるからである。

デフォルメはすなわち表現そのものだと、
僕は考えているわけだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:47| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
最近、YouTubeで特命リサーチ200X宮崎アニメ人気の秘密
を観たんですが、ジブリは知覚像で作ってるそうです。
知覚像ってデフォルメということでしょうか?
Posted by 紫 at 2021年05月24日 01:54
>紫さん

知覚像という言葉は初めて聞きましたが、
カメラの受像したリアルな像との比較であれば、
「脳内で認識された像」という意味でデフォルメでしょうね。

宮崎は、「ここでは大体こういう動作や仕草をするだろ」
という現実の経験に基づいて動きを決めるそうで、
「現実にその動きをしてるかどうかは関係ない」
と考えるようです。
「それっぽい」方が正解だと。

その「それっぽい」の基準が、現実の生活に基づいたものではなく、
アニメや漫画で見た基準のコピペになることを、
宮崎は嘆いていた記憶があります。

つまり宮崎とジブリの基準は、
現実の生活を思い出させるようなデフォルメが、
第一と考えられますね。

デフォルメの仕方には色々あり、
宮崎の考え方もひとつです。
おっぱいが3mあるのもひとつのデフォルメでしょう。
芸術とは、
「現実をどの方向でデフォルメしたのか」
のデフォルメ方法を楽しむものである、とも定義できます。
Posted by おおおかとしひこ at 2021年05月24日 10:39
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