2021年05月21日

【追悼ベルセルク】I am a God's child

ベルセルクのことを考えるとき、
いつも鬼束ちひろの「月光」がよぎる。
この腐敗した世界に落とされた子供は、
ここでもがくしかないのだという諦念。

絶望すれば無に呑み込まれ、
覚悟すれば戦わねばならぬ運命が待つ。

そしてその戦いは勝利で終わるとは限らない。


誰もが子供のように祝福され、
誰もが子供のように、腐敗した世界を目の当たりにしてショックを受け、
誰もがその子供性を捨てなければならない。

無に呑み込まれれば消えるし、
もがいても子供に戻れるわけではない。

ベルセルクは、
子供時代の幸せを黄金時代にたとえ、
それが蝕で失われた、
この腐敗した世界に落とされた子供の、
その後の物語だ。

だからその後は地獄しか続かない。


蝕というトラウマを一生胸の内に抱えて、
重い十字架をどこまで引きずれるかという物語だ。
烙印からは血が流れ続け、
目を瞑れば無に帰れるものを、
意思だけをつなぎとめて剣を振るう物語である。

だから我々はガッツに感情移入する。
我々もガッツ同様もがく者だからだ。


世界は幸福で終わるとは限らない。
それが真実であればあるほど、
ガッツには幸福と平穏が訪れるべきだった。
この腐敗した世界に落とされた、
神の子の結末を知りたかった。

それが物語の役目だと思う。


宗教と物語には共通点がある。

この腐敗した世界に落とされた子供が、
神によって救われる物語が、
宗教。

そうでない物語が、(一般の)物語。

つまり、
宗教でない物語は、
この腐敗した世界に落とされた子供が、
神以外にどのような救済を得られるのか、
という、
宗教の別解でなければならない。


絶望が深ければ深いほど、
その別解への期待値があがり、
ハードルが上がってしまう。

三浦建太郎は、結果的にそのハードルを超えられなかった。

幻魔大戦も、結果的にそのハードルを超えられなかった。
エヴァは、自分でハードルを下げて超えた。
(作画のハードルは上げたが、物語の質のハードルは下がった)



この腐敗した世界に落とされた子供は、
神以外にどのような救済を得られるのか?

鬼束ちひろの「月光」の詩を確認したが、
答えはなかった。
その発見の気分だけを歌っていたからだ。
月光のあと、夜明けや太陽の光を、
彼女はみたのだろうか?

物語は詩ではない。
結論を出さないものは、ただの問題提起だ。

神以外の、人の手による救済を、
結果的に放棄したガッツは、
「月光」と同じ詩の世界へと埋もれることになった。



もちろん、私たちがその続きを、
我らが人生をもってして示すべきだ、
という結論にもってゆくことはできる。

ある者は伴侶を得ることで、
ある者は子供を授かることで、
ある者は業績を出すことで、
神以外の結論を得られるかもしれない。

だがそれは、我々が期待した物語ベルセルクの結末ではない。


これほどの深く絶望に満ちた物語を僕は知らない。

デビルマンの再構築であることは、
構造を抽出してみればあきらかだ。

だがデビルマンと異なるのは、
不動明ガッツと、飛鳥了グリフィスの間に、
キャスカがあったことである。
一対一の物語に三角形の構造になったことで、
ベルセルクはより複雑な世界を描く野心があった。
美樹のような結末をキャスカが迎えなかったことで、
ベルセルクはデビルマンを本歌取りしながら超えられる可能性があった。

妖精島でキャスカが正気に戻り、
いよいよその三角形が始動すると期待され、
デビルマンをどう超えられるのかの、
「本題」に入ったはずだ。

デビルマンは人間には救う価値がなく、
悪魔性こそ本質であり、
それは神に滅ぼされて消えるしかないのだ、
というバッドエンドであった。

ベルセルクは、その二項対立をキャスカで繋ぎ止められた可能性があった。

キャスカは自分を犯したグリフィスのことをどう考えていたのか。
蝕をどう理解しているのか。
そこが描けたら物語は進んだはずだが、
三浦建太郎はその責任を取りきれなかった。

幻魔大戦の、東丈の失踪と似ていると僕は思う。
そこが描けないから話が進まず、
ついに進まない円環になってしまい、
あとは作者の生命力が衰えてしぼむ。

幸福があるとすれば画力の衰えを、
我々は見ずに済んだことだけだろう。



アキレスと亀のパラドックスを思い出す。
永遠に亀に追いつけないアキレスが、
特異点に永遠に近づくだけのループ。

ベルセルクも、幻魔大戦も、なんならバカボンドも、
特異点の突破の仕方がわからずに、
その手前で止まり続けた物語だ。

それが人生だという見方もある。

だが我々は、神以外の別解を見たいのだ。
もがく者として。


宗教並みの安寧を与えようとするから書けなくなるのだ。

そんな大層なものは物語には求めてはいけない。
人一人がつくれるものは、案外小さい。

それをたくさんの人が大事にするから、
大きくなる。
常に「今はこれが精一杯」だ。
精一杯の完結を見たかった。


ベルセルクの構造が独特なのは、
髑髏の騎士とゾッドの、不確定要素の存在だ。

これがあることで、
単なる三角構造が揺れて、
我々は楽しむことができた。
だがそれは、結論の引き延ばしにすぎなかったようにも思う。

最初から五代と響子さんがくっつくのは分かっているのに、
三鷹や九条やこずえや惣一郎さんの、
不確定要素で引き伸ばしたことと同じである。

ガッツとグリフィスは和解したのだろうか?
それとも殺し合ったのだろうか?
そこにキャスカは絡むのか?

ガッツとキャスカの流産した子供に、
グリフィスは受肉した設定であるから、
グリフィスは彼らの子供になって、
物語は終わったのだろうか?

二項対立を収めるのは三角形の安定である(三国志)、
という結論でも別に良かったさ。

BLは女が一人入ることで安定する、
という結論でも良かったさ。

この腐敗した世界が、
端から端までひっくり返ることは求めていない。
ただガッツとグリフィスの周りが、
幸福になればそれで良かったのに。



ガッツは、それまではガッツ石松しかいなかった世界に、
真の意味でのガッツをもたらした人物だ。
(その後ウルフルズがガッツだぜをヒットさせるが)

この腐敗した世界を乗り越えるには、
ガッツしかないのだ、
というところまでは描けていた。

ガッツがあればなんでも出来るかは分からない。
仲間が増え、
己の闇をコントロール出来るところまではわかった。

物語の構想としては、
髑髏の騎士の過去編を描き、
それを利用して最終章の決戦を乗り切る予定だったのだろう。
今のままではガッツとグリフィスが再会する可能性は遠く、
それを何かしらの道で繋がなければならないからだ。

それをキャスカがやったのかもしれないし、
妖精島の魔法使いたちがやれたのかもしれない。
ゴッドハンドや深淵の神は、
現世に干渉はせずに、うねりに呑み込まれ見えなくなる、
という体だったのかも知れない。

新生鷹の団の魔物たちの過去も描き、
ガッツたちとの対決もやりたかったのだろう。
イシドロの成長を見たり、
パックは妖精だから成長しないという話もあったかもしれない。



願わくば、プロット状態のものであっても構わないので、
結末を知りたい。
神以外の別解を知り、そのことで僕は自分の人生の意味を知りたいからだ。

ガッツの人生はこうだったので、
僕の人生とは違う。
でもガッツの結論は僕の参考になるぞ。

たとえ参考にならなくても、
たとえ微妙なものだったとしても、
それが物語の役目だと、
僕は考えている。


大剣を背負い、狂戦士の甲冑をまとい、
部分白髪の片目で、片腕で砲弾仕込みの義手を持ち、
黒いマントに身を包み、
烙印から血を流し続け魔物に追われ続ける男。
中二病の極みだが、
その説得力が凄まじかった。

なぜそうなってしまったのか?
どうしたらその地獄から抜けられるのか?
ガッツの人生は失敗だったのか?
志半ばで倒れることは失敗なのか?

俺は俺の中二病と、どう別れればいいのか?

ベルセルクは、いくつもの問いに答えない、
半宗教本になってしまった。



この腐敗した世界に、
僕は僕なりの物語で答えていきたい。

大剣はない。
ガッツはたぶんある。
posted by おおおかとしひこ at 10:10| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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