あることをやっている時が小の文脈。
それがどういう大きな流れの行動なのか、
というのが大の文脈。
たとえば。
卒業旅行で、死ぬほどはしゃいだ。
東京に帰ったら、こんなに会うことはもうないからだ。
を考えようか。
はしゃぐ内容はなんでもいい。
料理を楽しむとか、おかずを交換するとか、
カラオケでハモリを失敗するとか、
猫がいたら可愛がるとか、
まだ寒い海辺で花火をするとか、
ただかけっこをしたっていい。
その小の文脈は、ただ異常にテンションをあげてはしゃぐことを描くわけだ。
それが大の文脈=これが最後に騒げるチャンス、
という意味に乗っかるから、
この一つ一つがせつなくて愛おしいだろう。
この大の文脈がなければ、
単なる旅の恥のかき捨てで終わってしまう。
そうではなくて、
これは大の文脈の中の、
小の文脈なのだと観客がわかれば、
その小の文脈を、大の文脈の中でとらえ、
再解釈するだろう。
もしこの卒業旅行で最後、という大の文脈がない状態で、
「かけっこは誰が勝つのか?」
という小の文脈を追いかけても、
たいして面白くない。
「花火の火は誰がつけるのか?」
「自分の欲しい花火がセットに入ってなかった」
「ライターが切れた」とか、
どうでもいいことだ。
つまり観客は、どんなはしゃぎ方でも退屈する。
しかし大の文脈が分かっていればいるほど、
その一つ一つのディテールが、
とても愛すべきものに見えるだろう。
このように、
小の文脈と大の文脈を用意して、
二つを同時に理解させることは、
ストーリーの基本である。
もしあなたが、
ただ旅行している様をえがき、
ちっとも面白いストーリーじゃないと嘆いたり、
それすら気づかずに、
とても面白いストーリーだと勘違いしているなら、
それがどのような大の文脈なのか、
小の文脈とどうずらしているのかを、
考えてみたまえ。
下手な奴は、小の文脈だけ書いて、
一人満足しているだけのことが多い。
2021年05月25日
この記事へのコメント
コメントを書く