2021年05月25日

大の文脈と小の文脈

あることをやっている時が小の文脈。
それがどういう大きな流れの行動なのか、
というのが大の文脈。


たとえば。

 卒業旅行で、死ぬほどはしゃいだ。
 東京に帰ったら、こんなに会うことはもうないからだ。

を考えようか。

はしゃぐ内容はなんでもいい。
料理を楽しむとか、おかずを交換するとか、
カラオケでハモリを失敗するとか、
猫がいたら可愛がるとか、
まだ寒い海辺で花火をするとか、
ただかけっこをしたっていい。

その小の文脈は、ただ異常にテンションをあげてはしゃぐことを描くわけだ。

それが大の文脈=これが最後に騒げるチャンス、
という意味に乗っかるから、
この一つ一つがせつなくて愛おしいだろう。

この大の文脈がなければ、
単なる旅の恥のかき捨てで終わってしまう。

そうではなくて、
これは大の文脈の中の、
小の文脈なのだと観客がわかれば、
その小の文脈を、大の文脈の中でとらえ、
再解釈するだろう。


もしこの卒業旅行で最後、という大の文脈がない状態で、
「かけっこは誰が勝つのか?」
という小の文脈を追いかけても、
たいして面白くない。
「花火の火は誰がつけるのか?」
「自分の欲しい花火がセットに入ってなかった」
「ライターが切れた」とか、
どうでもいいことだ。
つまり観客は、どんなはしゃぎ方でも退屈する。

しかし大の文脈が分かっていればいるほど、
その一つ一つのディテールが、
とても愛すべきものに見えるだろう。


このように、
小の文脈と大の文脈を用意して、
二つを同時に理解させることは、
ストーリーの基本である。

もしあなたが、
ただ旅行している様をえがき、
ちっとも面白いストーリーじゃないと嘆いたり、
それすら気づかずに、
とても面白いストーリーだと勘違いしているなら、
それがどのような大の文脈なのか、
小の文脈とどうずらしているのかを、
考えてみたまえ。

下手な奴は、小の文脈だけ書いて、
一人満足しているだけのことが多い。
posted by おおおかとしひこ at 00:22| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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