2021年05月29日

設定さえわかれば、あとは人物に集中したい

これが観客の都合である。
しかし書き手は、つい設定にこだわってしまい、
先に進めなくなる。


理想は、最初に設定が三行あったら、
あとは何もなく、人物たちの感情や行動だけを、
楽しむものである。
途中で追加設定やあとづけなどは、
基本いらない。
これは観客の都合である。

観客は娯楽のために物語を見る。
主人公(たち)と一体になって冒険を楽しみたいだけで、
勉強するために見るのではない。

興味は人物にあり、設定にあるのではない。

しかし、作者がつくるのが大変なのは、
設定のほうである。
だから、ついつい設定を披露したい。
「こんな面白い、すごい設定を思いついた俺をほめてほしい」
がどうしてもある。
(ついでに、その設定を使いこなせないから、
設定を披露するだけで終わってしまうという実力の無さもある)
だから、どんどん設定を語るだけになってしまうのだ。

設定は冒頭三行だけでよい。
スターウォーズのようにだ。
(あれは冒頭だけで設定されているわけではないのだが、
あくまでイメージしやすい例としてあげた)


とはいえ、
途中で設定が追加されたりしたほうが、
より面白くなることもあるだろう。
ただ初期設定だけでストーリーがもつとも思えない。
どうしても、
「実はこうだったのである」とか、
「あそこはこれまで知られてなかったが、こうだったのだ」
などの追加があるものだ。
これも一回やったら、それ以上しないことが肝心だ。

観客は「それに対応する人物」を中心にみているわけであり、
「追加された設定を楽しんでいる」わけではないことに気づかれたい。

物語は人物を見るもので、
設定を見るものではない。
設定を楽しみたければ、設定集を読みたまえ。

理想は冒頭三行。
現実的には、新展開の都度。
全体でも1/100以下の文字分量になるといいと思うよ。
残り99%は、
登場人物の感情、行動、動機、冒険、
成功、失敗、決意、逆転、死、誕生、流転、
そしてそれらにまつわる喜怒哀楽で占められていて、
それを楽しむのが映画だ。


なぜ設定でなく人物なのだろうか?
「設定は目に見えないもので、
人物は目に見えているもの」だからではないかと思う。
つまり人は、目に見えるものから目に見えないものを想像する生き物なのだ。

作者は目に見えていない設定を目の前に見えているところが楽しくて、
設定ばかりやってしまう。
観客は、目に見えている人物の行動から、
目に見えていない設定を想像して楽しむ。
楽しみの次元が異なることに気づかれたい。
そして「観客がどう想像することが楽しいのか」
まで考えないと、ひとりよがりなものになるに違いない。
posted by おおおかとしひこ at 02:01| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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