2021年05月30日

「私は実は愛されていたのだ」はもうやめなさい

最近「エモいCMの企画」を渡された。
またこれか、というパターンで、
もうこれやめなよ、とため息が出た。
「私は実は愛されていたのだ」は、
映画「かもめ食堂」の最悪の部分だと僕は考えている。


私は悪くない。
私は本当は愛されていて、最高なのだ。
これを満たすものはなんだろう。
母親か、宗教ではないだろうか。
それを疑似的に供給する、キャバクラやアイドルもこれに連なるだろうか。

だから、
「私は愛されていないと思っていたのだが、
実は愛されていた」
というタイプのストーリーには、
一定の需要がある。
でもこれってもう陳腐化したパターンだと思うんだよね。

すでに死んだ親から、
愛されていた証拠が出てくるとか、
もうそこにいない人間(死んでなかったとしてももう会えないくらい遠いところへ行ってしまった人)
からの「実は愛していたんだ」などのものなどのパターンが、
あまりにも多すぎると思う。

僕は東京ガスの、
「母親が毎日弁当をつくっていたが、
息子からは感謝されなかった。
しかし最後の日、
「ありがとう」という手紙が入っていた」
という世の中で感動CMと呼ばれるアレが、
ものすごく嫌いだ。
「努力は報われる」ことの瞬間は尊いかもしれないが、
それはご都合主義というものだ。
そもそも母親が見返りを求めて弁当をつくることが、
とても気持悪いと思う。

かもめ食堂を批判しておこう。
かもめ食堂は、
北欧の地で、日本のソウルフードを紹介する食堂を一人で切り盛りするおばちゃんの話なのだが、
前半のがんばりが描かれるのかと思いきや、
単に淡々とつくってただけで、
たいして頑張った特筆するべきエピソードがないまま、
後半なぜか拍手で皆から褒められる、
不自然なシーンがある。
(しかもプールというよくわからない舞台)

ここが僕にはまったく説得力が皆無で、
このシーンが意味がわからんのだが、
主婦たちの感想で、
「普段褒められないことばかりだが、
こうして褒められると嬉しい」というものがあり、
「ああ、努力が報われていない人たちが、
ここで留飲を下げるのだな」
と僕は合点がいった。

つまり、
ここで留飲を下げる人は、
「普段褒められていないが、なぜか褒められたい」
という、甘い考えの人なのだ。

キャバクラ、と書いたのもそういうことだ。
キャバクラはお金を払って褒められにいくところだ。
普段褒められていない人が、なぜか褒められる場所だ。
つまり、ご都合主義を果たしに行くところだ。

もっと進むと風俗と同じである。
独りよがりなプレイだとしても、
風俗嬢は「イッた」と言ってくれる。
性的ご都合主義である。

かもめ食堂はご都合主義である。
褒められるにいたるストーリーラインが描かれていない。

にも拘わらず、
普段褒められていない人ほど、
「ただ褒められる場面」が気持ちいいのだ。

普段もてないやつがもてまくる、なろう系と、
どう違うというのだろう?


ということで、
「私は実は愛されていた」は、
ご都合主義のなろう系にすぎない。

それを一刀両断しても、
企画した人間は、
さっぱりわからないに違いない。

その心の闇を掘れば掘るほど、
恐ろしさ、恥ずかしさに、生きていくことができないだろう。
だから僕はやんわり断ることで、
とりあえず明日を生きていく。



愛されていないと思っていたが、
実は愛されていたのだ、
というのは一種のカタルシスだが、
それだけでは物語ではない。
性癖だ。顔射はぐっとくる、という程度のことでしかない。

これが物語足りえるのは、
「愛されるに足る出来事」が必須だろう。
それもないのにただ愛されるのは、
玄関開けたら二秒で合体とたいしてかわらんよ。

ああ、そういうポルノ違いを考えているのだ、
という開き直りがあればまた別だけど。



極論すると、
ストーリーとは、「ご都合主義なしの成功」
のことである。
posted by おおおかとしひこ at 01:28| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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