サンとエボシが母娘説。
https://mobile.twitter.com/nanai_komusai/status/1397122109319483393
日本史の奥まで入っていてきちんとした考察だった。
僕はそれの外から、もののけ姫は詰まらないと思っている。
何故なら、ナウシカの焼き直しだからだ。
エボシはクシャナと、
サンはナウシカと、
デイダラボッチは王蟲と同じ役だ。
アシタカだけが新しい役で、
それはペジテのアスベルが、
きちんと役があったらどうだったろう?
と膨らませた役に見えた。
だからアシタカの行方こそが、
ナウシカを更新する可能性があると僕は期待した。
呪いがどうなったかで、
それは暗示することができるだろうと。
しかし結局どうもならず、
劣化和風ナウシカをそこに見ておしまいに過ぎなかった。
この考察自体は非常にすばらしいが、
僕が疑問に思うのは、
「で、それを描ききってどうしたいのか?」だ。
つまりもののけ姫にはテーマがない。
映画ナウシカにあった、エコ主義的なものもない。
「与えられた場所で、おのおの生きるしかない」で終わってしまっている。
そんなことは知ってるわ、
日本に生きて日本の文学を摂取してるなら、
そんなことは知ってることばかりだ。
だからこそ、宮崎にはその先のテーマを描いて欲しかった。
ところがこの作品以降の宮崎駿は、
毎回テーマがよれて、
ビジュアルとテーマが無関係のものばかりになった気がする。
クライマックスであるところの、
デイダラボッチが人間と関係がないんだよな。
王蟲はまだ人間の核戦争のエゴの産物という皮肉があった。
しかしデイダラボッチ(噴火の象徴というのは面白い)が、
「日本人が大災害に慣れた民族で、
外圧に流されて生きる」
から脱しえていないのが、なんか限界を感じたんだよね。
ナウシカは子供王蟲を助けた、
やさしさで世界を変えた。
アシタカもサンも、何もしてない気がする。
そのカタルシスの差、テーマ性の差で、
もののけ姫は物語的には劣化ナウシカだ。
これらの日本史的考察はおそらく真だろう。
だがもののけ姫は、
それらを象徴的に表現するところまでで、
息切れとなってしまい、
その先に何を描こうとしたのか、
がなかった気がする。
その時点で、未来を予見するカナリアの役目を、
宮崎は終えてしまったように感じたことを、
この考察を見て思い出した。
あることを象徴しただけでは、ただの写像である。
物語中で起こったことを逆写像して、
はじめてテーマになる。
もののけ姫で起こったことを現実に逆写像すれば、
「まあ色々あるけど頑張っていきましょう」でしかなくて、
そんなん知ってるわレベルだ。
映画「がんばっていきまっしょい」の方がよっぽど良いし、
華原朋美の「あきらめましょう」のCMのほうがよく出来ている。
結局宮崎は、日本史に飲み込まれて、
その先の物語を描くところまで行ってなかったんだなと、
今ならわかる。
2021年05月27日
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