たったひとつだけコツを教えよう。
「みんな、きいてくれ。」で始めるといい。
読書感想文は、本来の目的が失われて、
ただの拷問になっている。
本来ならば、
「○○という本を論ぜよ。」という設問であるべき課題だ。
だが子供には「論ずる」ことが難しいため、
「感想文」とお茶を濁しているだけである。
だから正しい「読書感想文」とは、
正しい評論であるべきだ。
つまりは、ストーリー構造を分解したり、
なぜこの作品が価値があるのかを論じたり、
他の名作と比較してどうかを考えたり、
ストーリーのイフを考えて、
やはりこれが最上であったなどと、
論を展開しなければならないのだ。
そこまで開かれた議論が小学生には出来ないだろうから
(もちろんしてもいいぞ!)、
自分との関係性でよいので論じてください、
という課題である。
実のところ、
本の内容はどうでもよくて、
自分の思ってることをうまく表現できますか?
という課題なのだ。
「お父さんへ」で作文を書かせたり、
「昨日の晩飯」で作文を書かせたりすることの、
ネタ違いでしかないということを、
まずは認識するべきだろう。
で、こんなことを小学生に言ってもしょうがないので、
「みんな、聞いてくれ。」で始めよ、
ということなのだ。
どういうことかというと、
読書感想文は、特定の誰かに向けた文章ではなく、
誰でも読めるものであるべきだ、
ということだ。
とくに、
「その本を読んでない人が、
それは面白そうだ。ネタバレを喰らってしまったが、
これは読んでみたくなったぞ」
となるものが最上なのである。
だから、「みんな、聞いてくれ。」で始めると良い。
【話題】読書感想文苦手マンが読書感想文を書けない理由がこちら
http://hattatu-matome.ldblog.jp/archives/56594026.html
が非常に興味深かった。
ここで気になったのが、
「先生に向けてガチで書く」という認識の誤りだ。
「先生に向けて」書くから書けなくなったり、
「先生が思ってる正解っぽいのを書いて褒められる」
みたいな忖度感想文という名の奴隷が出来上がる。
そうではない。
文章というのは、特定の誰かに出す手紙を除いて、
「みんなに向けて書く」のだ。
正確にいうと「これを読んだ全ての人」なのだが、
ややこしいので、
みんなに向けて、の方が分かりやすいと思う。
だから、「先生に向けてガチで書く」のではなく、
「みんなに向けてガチで書く」のである。
このときネタバレがない限り、
ガチで書くことが出来ないため、
読書感想文(という名の議論)は、
ガチでネタバレをして底の底まで分解するべきだ。
つまり、文章とはスピーチだ。
スピーチが苦手な人は、
文章でスピーチするだけのことである。
とあるネタ本を使って、
あなたが考えたこと、感じたこと、
知らない人が読んでみようと思えること
(逆にクソだからやめておけ、
なぜなら、という忠告でもよい。
それが妥当な議論なら100点である)、
などをスピーチすることが、
読書感想文に求められていることだ、
と僕は考える。
それを強制的に書くには、
「ちょっとみんな聞いてくれ。『○○○』という本なんだけどさ、」
と始めればいいわけだ。
読書感想文が苦手な人は、
何を書いていいか、
誰に向けて書いていいかわからないのだと思う。
自分相手に書いてしまうと、
「もう読んだしわかってる」から、
なにも書くことがない。
「ママに向けて書いてごらん」という親もいるかもしれないが、
だったら読んでよ、としか思えない。
先生に向けて書くのもだめだ。
あなたの書く文章は一人の先生なんてチンケな存在ではなく、
もっと広く開かれた、みんなに読まれる価値のあるものだ。
なんなら先生全員、クラス全員、地域全員が読むものだ。
何もなしで面白い話をして、ではないから楽だよね。
その本について、みんなに話せばいいんだよ。
ただみんなはその本読んでないから、
ポイントを抑えて、どこが良かったのか、
それがなぜいいと思ったのか、
自分の言葉で語ればいいのである。
先生が期待する文章なんて書くな。
どうせ模範的な下らないものだ。
それは新しくない。
せっかく新しいあなたがその本に出会ったのだから、
新しい文章を書けばいいのである。
そんなことを、
読書感想文の授業で誰も教えないから、
みんな書く力も鍛えられないし、
議論する力も鍛えられないし、
読解力も鍛えられない。
もっとも、ここで書いたことは、
義務教育のレベルを逸脱した、
出来るためのやつの、私塾で教えるレベルかもしれない。
でも僕は別にそれで金儲けしてないので、
みんな書けるようになれよな。
すべての文章というものは、
「みんな聞いてくれ。」で始めれば良い。
殆どの文章で省略されているだけだぞ。
2021年05月28日
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