三幕構造は、全体は三幕であるべきだと考える、
西洋の演劇から来た考え方である。
演劇では暗転して幕が降り、セットチェンジがあって幕が開く。
幕とはすなわちセットの数のことだ。
(場という数え方もある。
定義がややこしいので以下では、
幕が開いてから降りるまでを単に幕と考える)
幕とストーリーの関係について考えよう。
演劇では幕が物理的に降りて、
ゴトゴトと美術さんたちがセットチェンジをする。
そして幕が開くと別のセットになっている。
そのすこし待つ間に、
これからストーリーがどうなっていくのか想像したり、
あれはああいうことだったのかなあ、
などとこれまであったことを脳内でまとめたりする。
だからか、
次の幕が上がったときは、
前の幕から見てやや時間が経過したあとから始まることが多い。
幕と幕の間の時間を、演出として考えているわけだね。
物理的な幕のある演劇と違い、
映画は幕がない。
インターミッションがあるときは幕があることもあるが、
基本物理的な遮るものはない。
ただ、映像がつながるのみである。
暗転すればいいのだろうか。
時間経過を多めに設定すればいいのだろうか。
逆に、幕と幕の間を決めるものは何か。
シーンとシーンの間のつなぎと何が違うのか。
僕は、ストーリーでつくれると思う。
時間経過や、暗転、場所が変わることなどは、
幕の間と関係ないと僕は思っている。
その代わり、
ひとつだけ大事なことをすればよいと。
それは、
「幕の切れ際に、焦点をひとつに絞る」
ことだと思う。
それまでにあった、
「あれはどうなるんだろう」
「これはどうなってしまうのか」
などの焦点をひとつにまとめて、
「一体Pはどうなってしまうのか?!」
に全部集めてしまうことが、
幕切れのときにあるべきことではないかと考えている。
そうなると、
幕の前のブロックと、幕のあとのブロックが、
意味的に切れるからだ。
それでいて、大きく太いパイプでつながったように思えるからだ。
焦点が細かく色々あるようなときに、
シーンがただ変わっても、
「まだ話は続いていて、大きな切れ目になっていない」
と感じるに違いない。
しかしそれらがまとまってたった一つの焦点になったとき、
「いよいよこのブロックは終わり、
次のブロックへ行くのだな」とわかると思う。
もちろん、それが幕という一番大きな構造ではなく、
もう少し小さなブロックでやることも、
やぶさかではないだろう。
しかし小さなブロックでそれをやるならば、
幕というもっと大きな単位でやるべきことは、
もっと大きな単位の焦点のまとまりが必要かもしれない。
それがセンタークエスチョンであることは、
多少脚本論をかじったなら、理解できることと思う。
なぜ幕の切れ目で、
「〇〇は解決するのか?」
とセンタークエスチョンを提示するのか、
という問いには、これまでの議論が答えるだろう。
なるべく大きな焦点に、
これまでのことをまとめるためであり、
それを次につなぐ為である。
その一番大きなものが、センタークエスチョンというわけだ。
もちろん、センタークエスチョンを提示しただけではなんの意味もない。
「あの言葉の意味は」
「あの伏線は解消するのか」
「あいつのあれはどうなるんだろう」
みたいな小さな問いはすべて、
センタークエスチョンが解決すれば解決するだろうということを、
予感させなくてはならない。
これを幕の間に持ってくることで、
前の幕を圧縮した記憶にして、
次の幕を展開する脳のエリアを開けるのである。
演劇では物理的な幕の下げ、上げがあるから、
自動的になんとなくやってきたことかもしれないが、
幕のない映画では、
このように脚本でやっておかなくてはならない。
逆にこれらの「まとめ」がない幕の切れ目は、
とてもだらだらしているわけである。
失敗した映画のそれを見れば、明らかだと思う。
(たとえば実写版「ノルウェイの森」。
幕の切れ目は曖昧で、だらだらと続くのみであった)
ただセンタークエスチョンを提示すればいいのではない。
まとめとつなぎを、
「ひとつの焦点」として機能しないと、
幕の切れ目として適切な役割を果たしていないと言えるだろう。
それは小ブロックの境目でも同じかもしれない。
話をまとめて、
「次に何をひとつだけするべきか」は、
節目節目でやるべきことかもしれないね。
そうすると、集中することが出来ると思う。
2021年06月07日
この記事へのコメント
コメントを書く