2021年06月14日

救えるだけの絶望

絶望的な状況は面白い。
絶望も一種の刺激で、エンターテイメントである。

そこに追い込まれた主人公に同化して、
ああ、自分はそんなにつらくなかった、よかった、
と安心するのは、底辺バラエティーと同じ効果がある。
しかし、ただ絶望していればいいわけではない。


物語とは、ハッピーエンドであるべきだと思う。
これはあくまでべき論だ。
バッドエンドであるべきという人もいるだろう。
僕はハッピーエンドであるべきだと思う。
それは、それを見る前と見たあとで、
世界の見方が変わるほどの影響力が、
物語の力だと思っているからだ。
そのためには、ハッピーエンドであることが前提だ。

バッドエンドで終わったり、
未解決で終わったり、
微妙な終わり方をするものは、
物語として中途半端なものだと僕は思う。


一方、
物語とは、
問題を解決することが骨子である。
ある状況を解決するからハッピーエンドになるわけだ。

つまり、どんなに絶望的な状況に追い込まれても、
最後はなんとかハッピーエンドになるのが、
物語の基本構造である。

一方、
絶望だけがエンターテイメントになりうる。
「見たこともない絶望的状況」
「こんな絶望は感じたことはなかった」
などは、それだけで強烈な体験になり、
それだけで価値があるものになるだろう。

たとえば「ベルセルク」の蝕以上の絶望を僕は知らない。
漫画「デビルマン」のラストもものすごい絶望だった。

しかし、これらはハッピーエンドになっていない。
未解決である。
つまり、
価値のある絶望を提示しておしまいなのだ。
(ベルセルクは結果的に未完結になってしまったのは、
日本の文化の大変なる損失である)

物語は、
絶望的な状況を、いかにひっくり返して解決に導くか、
というエンターテイメントだ。
絶望的な状況だけでは片輪なのだ。

そして、
絶望的な状況をつくって、
解決せずに放りだすことは、
絶望的な状況を上手に解決することより、
はるかに簡単なことが、
絶望的状況を描くことを許しているといえようか。


問題は解決しなければならない。
それを見事に描くことはたいへん難しい。
だから、
自分への無茶ぶりとして絶望的な状況を描き、
投げっぱなしエンドにすることは、
まれによくあることだ。
(例 ファイアパンチ)

解決できない絶望は、
描くべきではない。

あなたが解決を描けるレベルの絶望にしよう。
つまりそれは、
絶望をコントロールすることである。

コロナより恐ろしいウィルスによる、
人類絶滅の絶望的な状況を描くことはできる。
政府上級国民たちが日本を売り渡すような、
絶望的な状況を描くことはできる。
しかしおそらく、それを劇的に解決するストーリーをつくることは不可能だろう。

だから、物語で解決する絶望というのは、
現実の絶望よりも小さな絶望であることが多い。

これがゆえに、
最近物語の力が落ちているように感じるのではないかと思う。
解決する絶望は、そこそこの規模。
解決しない絶望は、圧倒されるけど未解決。

このことで、
物語が、世界に希望を持ちえないものになっているのではないかと僕は考えている。


じゃあ、よい絶望とはどういうものか。
それを考えだし、
それを解決するまでのストーリーを考えだすことが、
作家に求められていることだと思う。

僕はベルセルクの絶望的状況が、
どのように解決するのかを知りたかった。
自分で想像することは可能だが、
それを上回るものがあるなら見たかった。


物語は解決である。
解決こそがテーマだ。

絶望がテーマではない。
絶望は前提条件である。
だから、あなたが解決できるレベルの絶望が、
上限でしかない。

あなたが解決できるレベルに絶望のレベルを下げよう。
あなたが成長して、ものすごい絶望を解決するストーリーがつくれるようになろう。
絶望との付き合い方は、そうしたものだと思う。


振られたことを書くとか、
会社で辛かったことを書くとかは、
初心者はよくやることだ。
しかしそれを自分で克服していない限り、
その絶望をハッピーエンドに転換する物語は書けまい。
自分のコントロールできる絶望に変えなさい。
それがしょぼいものでしかないなら、
絶望ではない問題に変えるべきである。

救えない絶望は、物語にはならない。
posted by おおおかとしひこ at 01:03| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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