2021年06月19日

【日記】神輿の行方

僕は子供の頃から神輿が嫌いだった。
担ぎ手として祭りに強制参加だったのも嫌だったが、
神輿の性質が嫌いだったのかもしれない。

ただ一点の嫌いなポイントは、
「全体の平均の方向に神輿が動く」ことだな。


こっくりさんの科学的な分析結果がある。
こっくりさんは霊の降臨ではなく、
十円玉に触れた4人の、
共同運動であるということ。

たとえば、
「3人が知らないが1人が知っている質問」だと、
3人はバラバラの方向の力を入れてしまうが、
1人の力がかかると、
そちらへ誘導されてしまう。
バラバラゆえにある方向性を与えられるとそちらに靡く。

「2人が知ってて2人が知らない質問」だと、
動かす方向性はより強くなる。
「3人が知ってて1人が知らない質問」ではさらにだ。

この3パターンのときはどれも、
「知らない質問にこっくりさんが答えた!」
と勘違いする、「知らない人」が存在する。

仮に10個質問に答えたとして、
1個だけ知らない答えがあったとすると、
「9個は真実に答えてくれたし、
1個は知らないことを教えてくれた」
という印象になる。
それが奇跡に思える、というからくりだ。


勿論霊の存在を否定しない。
だがこっくりさんは、
「集団の意思決定において、
大勢の平均方向へ引きずられる現象」
という風に再解釈できる。

神輿も同じだと僕は思う。

担ぎ手の力の平均方向へ、神輿は動く。
担ぎ手全員はバラバラの方向を向いていて、
それはぶつかり合うのだが、
平均すると流れがあり、その方向へ動くわけだ。

ワッショイワッショイと神輿を振るのも理由があって、
水平持ちなら綱引きがあからさまになるのを、
縦方向に振ることで三次元的に誤魔化していると僕は思っている。


僕は何が嫌いだったのかというと、
「自分の意思に反して大勢の平均にしか動かない」
愚鈍さだったのだろうと思う。
あるいは、
「大勢の平均に無理やり従わせられること」
かもしれない。
「そっちに行きたいなら、そっちに行きたい人だけでやれや」
と、僕は小学生の時から覚めていた。
そして、
「そっちに行く」を誰もが決定せず、
「なんとなく空気の方向に動く」という無責任さもだろう。


僕は、神輿の担ぎ方が、
日本人の群れとしての意思決定の基礎になっている気がする。

何か皆の従う飾り(大義名分)が必要で、
合理的な結論を議論するでもなく、
第三の道を模索するでもなく、
誰か責任者が決定を下すでもなく、
なんとなくずるずると空気の方向へ動いていくこと。
神輿の下では異なる方向のぶつかり合いがあり、
無駄がたくさんあるのに、
みんな笑顔で担ぐこと。
そして終わってしまったらそんな苦痛をわすれて、
「祭りはいいねえ」で〆ること。

その無駄と無反省を、
僕は小学生の頃から嫌っていた。
おまつり自体は好きだけど、
神輿の精神性が好きじゃない。



祭りは、近代になってイベントという、
金が大量に動く投資対象になった。
そして祭りを仕切るのが政りというのは、
太古から変わっていない。

この意思決定の阿呆さを、
うまく物語に落としたい。

司馬遼太郎は敗戦の謎を解こうとして、
それを小説に書ききれなかったという。


自由が丘熊野神社の祭りでは、
神輿が「穴」に収まるように誘導する祭りがある。
「穴」は三回拒否するんだけど、
最後は勢いに負けて「収まる」ことを容認する。

これが男女の隠喩なのは誰でもわかることで、
そうやって、五穀豊穣は保たれたのだろう。

僕が気になるのは、「いや」を三回言ったくせに、
結局は受け入れる「穴」の気持ちである。
レイプと何が違うのか、女性の方に尋ねたい。
「そんなに愛してくれるなら」
と気持ちがほだされることはよく聞くのだが、
いやなものはいやだろと僕は思うので。


神輿はどこへ行くのか。

「穴」に三回拒否されて、結局ゴールするんだな、
と、東京五輪のゴタゴタを見ながら思っている。
posted by おおおかとしひこ at 15:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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