僕は子供の頃から神輿が嫌いだった。
担ぎ手として祭りに強制参加だったのも嫌だったが、
神輿の性質が嫌いだったのかもしれない。
ただ一点の嫌いなポイントは、
「全体の平均の方向に神輿が動く」ことだな。
こっくりさんの科学的な分析結果がある。
こっくりさんは霊の降臨ではなく、
十円玉に触れた4人の、
共同運動であるということ。
たとえば、
「3人が知らないが1人が知っている質問」だと、
3人はバラバラの方向の力を入れてしまうが、
1人の力がかかると、
そちらへ誘導されてしまう。
バラバラゆえにある方向性を与えられるとそちらに靡く。
「2人が知ってて2人が知らない質問」だと、
動かす方向性はより強くなる。
「3人が知ってて1人が知らない質問」ではさらにだ。
この3パターンのときはどれも、
「知らない質問にこっくりさんが答えた!」
と勘違いする、「知らない人」が存在する。
仮に10個質問に答えたとして、
1個だけ知らない答えがあったとすると、
「9個は真実に答えてくれたし、
1個は知らないことを教えてくれた」
という印象になる。
それが奇跡に思える、というからくりだ。
勿論霊の存在を否定しない。
だがこっくりさんは、
「集団の意思決定において、
大勢の平均方向へ引きずられる現象」
という風に再解釈できる。
神輿も同じだと僕は思う。
担ぎ手の力の平均方向へ、神輿は動く。
担ぎ手全員はバラバラの方向を向いていて、
それはぶつかり合うのだが、
平均すると流れがあり、その方向へ動くわけだ。
ワッショイワッショイと神輿を振るのも理由があって、
水平持ちなら綱引きがあからさまになるのを、
縦方向に振ることで三次元的に誤魔化していると僕は思っている。
僕は何が嫌いだったのかというと、
「自分の意思に反して大勢の平均にしか動かない」
愚鈍さだったのだろうと思う。
あるいは、
「大勢の平均に無理やり従わせられること」
かもしれない。
「そっちに行きたいなら、そっちに行きたい人だけでやれや」
と、僕は小学生の時から覚めていた。
そして、
「そっちに行く」を誰もが決定せず、
「なんとなく空気の方向に動く」という無責任さもだろう。
僕は、神輿の担ぎ方が、
日本人の群れとしての意思決定の基礎になっている気がする。
何か皆の従う飾り(大義名分)が必要で、
合理的な結論を議論するでもなく、
第三の道を模索するでもなく、
誰か責任者が決定を下すでもなく、
なんとなくずるずると空気の方向へ動いていくこと。
神輿の下では異なる方向のぶつかり合いがあり、
無駄がたくさんあるのに、
みんな笑顔で担ぐこと。
そして終わってしまったらそんな苦痛をわすれて、
「祭りはいいねえ」で〆ること。
その無駄と無反省を、
僕は小学生の頃から嫌っていた。
おまつり自体は好きだけど、
神輿の精神性が好きじゃない。
祭りは、近代になってイベントという、
金が大量に動く投資対象になった。
そして祭りを仕切るのが政りというのは、
太古から変わっていない。
この意思決定の阿呆さを、
うまく物語に落としたい。
司馬遼太郎は敗戦の謎を解こうとして、
それを小説に書ききれなかったという。
自由が丘熊野神社の祭りでは、
神輿が「穴」に収まるように誘導する祭りがある。
「穴」は三回拒否するんだけど、
最後は勢いに負けて「収まる」ことを容認する。
これが男女の隠喩なのは誰でもわかることで、
そうやって、五穀豊穣は保たれたのだろう。
僕が気になるのは、「いや」を三回言ったくせに、
結局は受け入れる「穴」の気持ちである。
レイプと何が違うのか、女性の方に尋ねたい。
「そんなに愛してくれるなら」
と気持ちがほだされることはよく聞くのだが、
いやなものはいやだろと僕は思うので。
神輿はどこへ行くのか。
「穴」に三回拒否されて、結局ゴールするんだな、
と、東京五輪のゴタゴタを見ながら思っている。
2021年06月19日
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