2021年06月29日

何故幾何学的なものがデザインになるのか

複雑な現実を、幾何学で整理したような気になるからでは。


表現とは、世界をそのまま写像することではない。
何かを強調したり、何かを省略することで、
表現というのは成立する。

それをそのまま写す写真ですら、
ピクセルに落ちているし、
陰影が落ちている(ダイナミックレンジ及びRGB)し、
そもそも四次元から二次元に落ちている。
その落ちたときでも成立するように、
強調と省略がある。
そもそも適当に写真を撮ってもよくわからない写真になることは、
これだけ写真が普及すれば理解されてきたことだと思う。
何かしらポーズを取ったり、分りやすくしなければならない。
(逆に、盛ることもできる)


デザインとは、
世界をとらえなおすための方法論だと僕は思う。

複雑な世界を、
「このように単純化してとらえました」
というプレゼンであると。

だから単純化の美しさとして、
幾何学的な要素が使われると思っている。

幾何学によって、
世界は整理された、と主張するのが、
デザインだといっても過言ではない。


ピクトグラムをはじめ、
単純な幾何学的な図形ほど、
世界をうまく抽象化したものだと勘違いされやすい。
ビジュアル上そう思われがちだからだ。

実際、それが世界の近似、もしくは整理になっているかどうかは、
それが示す世界の豊かさや、
何が近似されて世界として成立しているか、
ということを検証しないとなんとも言えないところだろう。

たとえばキーボードという複雑なものを、
格子配列のような、
幾何学的なものに再整理するという流れがある。

しかし、これは最高の整理ではないと思う。
我々の手指の動きは幾何学的ではないからだ。
つまり、格子配列は見た目は整理されているように見えるだけで、
現実には、整理の仕方としては優秀なものではない。

しかし見た目が、
「このように整理しましたよ」
と分りやすいため、
視覚的に人気があるデザインである。
ぱっと見で人は騙されやすい。


世の中には成功したデザインと失敗したデザインがある。

成功したものは、
世界を上手に幾何学として整理しなおしたもの。

失敗したものは、
世界を幾何学的に整理できなかったもの
(スーパーのチラシ状態)、
あるいは、
幾何学的に整理したが、世界の近似としては不十分なもの、
である。


表現とはつまり整理である。
その整理の仕方が美しく、
かつ妥当ではなくてはいけない。

あなたが世界をどのように整理するかが表現である。

それが美しく整理されているか、
それが妥当に整理されているか、
ふたつのチェックが必要だ。


幾何学的に美しく整理されていると、
少なくともビジュアル予選は突破できる。
そのあとの本審査、妥当性で落とされるかもしれないが。

幾何学的に整理されていないと、
まずその予選を突破できないことが多いけどね。



世界は幾何学で近似できて、
幾何学で整理できる。
それが世界モデルとして妥当なとき、
あるいは世界モデルとして新しくかつ妥当なとき、
その表現はすばらしいと言えるだろう。


デザインは視覚的なものや機能的なものだけだが、
ストーリーはもっと複雑なことを扱う。
たとえば人生だ。
人生は幾何学で近似できるか?
ということを、物語はやっているのだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:07| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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