それは我々作家の義務だ。
古典的な悪を倒す話も大事だが、
人類の進歩は、悪をも進歩させる。
新しい悪をどうやって倒すか、
そのシミュレーションは、架空の物語が得意とするところで、
利点である。
五輪での酒提供OKします→やっぱやめますの、
朝令暮改の醜態には、
どのような悪があるのだろう?
あれだけ愚かだと言われた太平洋戦争は、
なぜ止められなかったのだろう?
そこにはどのような悪があるのか?
僕は、個人の悪ではなく、
集団の悪のようなものがあると考えている。
一人一人は善人かもしれないが、
集団で集まるとあまりにも愚かで、
集団として、結果的に悪をなすことは、
僕は悪だと考える。
以下のような論点があると思う。
・忖度。
相手がいない所で相手にびびり、
勝手に判断すること。
・会議で議論するのではなく、
事前に根回ししておき、
会議は発表や通達の場になること。
・各部の調整が議論という誤り。
会議の理想は、対立する要素から、
これまでなかった第三の案に辿り着くことであり、
対立する二者の綱引きのバランスを決めることではない。
容易に想像できるとおり、
n者の綱引きが存在するならば、
各個で綱引きのバランスを決めても、
あちらを立てればこちらが立たず、
を何回も繰り返すことになる。
愚かなる五輪相橋本は、
図らずも「調整の方向」といった。
場で議論するのではなく、
議論以前の根回しで、
各部を調整しておき、
場で発表することの表れだ。
僕はこれが愚かで、悪だと考える。
議論のやり方を知らずに、
忖度(動機は恐怖)で、
各部と調整して、
一番声のでかい人の望む方向に、
結論を持っていくやり方、
のことである。
科学的議論は、この調整に飲み込まれる。
議論の場で言おうが、
根回しから外されているからね。
目に見えない「方向で調整」が政治の仕事だとしたら、
方向を決めるのは誰の仕事だろう?
誰がその方向を望むのだろう?
誰も望んでないけど、
「その方向で調整」だけが一人歩きしてるのだろうか?
個々のケースでヒアリングしてみないと、
その真実は明らかにならない。
でも、たぶん、
「その方向で調整」と決めた人はいない、
というオチじゃないかと僕は思っている。
野球のフライで、
三人ぐらいの真ん中にポトリと落ちて、
誰も取りに行かない現象がある。
調整の結果、真ん中に落ちるやつ。
僕はこれに似ていると思った。
「誰かが取りに行く調整」だけを、
三人がした結果だろう。
日本サッカーの、バックパス現象にも似ている。
日本人は、調整ばかりしている。
議論の末、第三の解決法に到達することをするべきだ。
三人よれば文殊の知恵なのに、
よる前に「方向で調整」してるわけだからね。
我々作家は、それを噛み砕いて、
エンターテイメントに仕立て上げ、
人間の集団を批判し、
悪を糺す義務がある。
2021年06月23日
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