2021年07月02日

歌謡曲を研究しよう

日本の70年代、80年代のヒット曲は、
歌謡曲が中心であった。
80年代中盤からはニューミュージック、
90年代になると小室をはじめとしたJPOPに変わるが、
それ以前の歌謡曲というふつうのヒット曲は、
物語として研究に値する。


歌謡曲かそうじゃないかを判定するには、
「英語が入っているかどうか」で判断するといいかな。
カタカナはギリセーフ。
英語表記がサビに入っていたり、トップやケツに入っているやつは、
歌謡曲から外れていると判断してもいいだろう。

当時の時代感でいうと、
「歌謡曲はダサい。英語が入っているほうがかっこいい」
という感覚があり、
英語歌詞を入れるのは歌謡曲から離脱しようとしていたことの現れだ。

しかし英語を入れつつも歌謡曲的な世界観を持ったものもあるから、
英語入りだからといって無下に却下しなくてもよい。
とりあえずは日本語が9割5分入っているものが、
歌謡曲であると言えるだろう。

何故日本語に限定するかというと、
「母国語による表現だけで勝負している」ことが、
物語のつくりと同じだからだ。

演歌はどうか。ヒットした演歌は入れてもいいかもだ。
歌う世界が現代劇なのが歌謡曲、
裏日本的なのが演歌、
というすみわけがある。
(多くの歌謡曲と演歌は、喜劇と悲劇の表裏の関係になっているが)


さて、
じゃあ、歌謡曲の何がいいのか。

それが日本語で表現された物語(的)になっていることが多いからである。


とあるシチュエーションにいる主人公。
その秘めた思い(動機)。
実際に行動すること。
その結末。

そうした物語的な構造を持っていることがあるのだ。
たいていは恋に絡んだことが多いけど、
そうじゃないものもあったりする。
三幕構造を持っているものすらある。

さらに、
歌謡曲で勉強するべきことは、
「それが風景と絡んでいること」
だ。
「その風景を見れば、そのストーリーを思い出す」
ことになっている。

または、
「キャッチーなフレーズ」
と絡んでいて、
「その新しい言葉を聞けば、そのストーリーを思い出す」
ことになっている。

これは、ストーリーのイコン化、名セリフ、
そのものである。


堀江淳「水割りをください」を例に挙げると。
バーでぐたぐだしているシチュエーション、
というのはよくあるシチュエーションで、
それほどのイコンではない。
しかし、
「あいつなんかただの通り雨」
と強がる台詞が印象的だ。
うまくいかないが好きであきらめきれない恋の相手を、
通り雨にたとえた詩はこれがオリジナルである。
つまり名セリフ、言葉の力だ。

ピンクレディー「UFO」を例に。
シチュエーションが独特だ。
宇宙人との恋がモチーフである。
だが歌詞内容をよく見ると、
「いい男がいないから、
全然違う人と恋しようかしら」
という反語の内容であることがわかる。

恋をすると世界が変わることを宇宙人に出会ったレベルにたとえている、
あくまでたとえ話になっていることがわかる。
主題は「振られてつまらない」である。

そのよくあることを、
新しいシチュエーションに放り込んだから、
この歌はポピュラー性を獲得しながらも、
斬新でヒットしたわけである。
当時最新鋭の、シンセサイザーの宇宙的なSEも新しかった。
(デジタルSEがなく、すべてアナログ楽器で音を出していた世界を想像すればわかる)

「斬新なもの」は時代が進めば陳腐化するけど、
それはしょうがない。
しかし「普遍的なもの」を、
「斬新な衣でつつみ」、
それを「物語形式で語る」
手法自体は、
たとえ歌形式であれ、
物語そのものである。

だから歌謡曲はポピュラー性があったのだ。

80年代に洋楽の影響があって、
歌謡曲はダサい、
つまり、物語を味わうことがダサくて、
ただただカッコいいだけが音楽なのだ、
なんて瞬間もあった。

物語的な劇的な構造を持たない、
フォーク的なニューミュージック的な、私小説的な展開もあった。
それにしても日本語歌詞が中心になっていたものは、
多分に物語的要素をもっていることが多かった。
中島みゆきとかね。

その、
語られている内容(ストーリー)と、
それをくるんでいる衣(斬新なモチーフや名セリフ)、
の関係を見るために、
歌謡曲は恰好の題材である。

おじさんとカラオケにいけば、
70年代や80年代の歌はたくさん聞ける。
コロナでそうした機会を失うことは、
たいへんもったいないことだ。


最近YouYubeで椎名恵やバービーボーイズやアルフィーがおすすめに上がってくる。
何かの際に調べて、
関心があると思われたのだろう。
ああ、80年代は歌というとこうだったなあ、
なんて思い出す。

90年代以降のJPOPは、
自分のお気持ちを表明して、
それに共感する人だけが買うものになってしまった。
つまりマーケティングだ。
商品と同じ色をした人しか買わない。
だから狭い。

物語というのは、
それよりも広く、その世界と違う人でもその世界を味わうことができる。
感情移入という効果である。

私たちはバーで飲んだくれて愚痴を言うかどうかは知らないが、
「あいつなんかただの通り雨」と強がり、嘆く気持ちは持っている。

私たちは宇宙人と出会い、恋するかは知らないが、
「眼を合わせるだけで通じ合うような、
素敵な男がいなくて、
つまらない普通の男ばかり」
という感覚は持っている。

その待ちの広さを、学ぶべきである。


そしてあなたも、
歌謡曲のように、物語を書くべきだ。
あるいは、
物語のような、歌詞を書いてもいいぞ。
posted by おおおかとしひこ at 01:51| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
歌謡曲=演歌だと思っていたので違いを初めて知りましたw


歌のフレーズを研究してみると、「これをこういう言い回しで表現するのか」という驚きがあって自分じゃ一生思いつかんレベルなのも結構見ます。

よくこんなの思いつくなと思うと同時になるべく参考にして自分の表現力も増やしていきたいですね
Posted by kyky at 2021年07月02日 13:12
>kykyさん

歴史的には演歌から派生したのでしょうが、
当時の現代詩人がたくさん参加したのは確実でしょう。
阿久悠とかは集団のペンネームだし。

日本語の表現はこの時代から比べたら、
詩を味わうレベルにきてないと、
おじさんが嘆くのはすごくわかる。
(歌は詩を味わうものでは最早ない、
という過激派意見もありえますが)

知られていないのは勿体無いので、
どんどん鉱脈を見ておくべきでしょう。
Posted by おおおかとしひこ at 2021年07月02日 13:55
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